購入を考えている品と、おすすめモノの一覧。
リストアップはしたものの、実際にどれだけ買えるかはお財布の状況次第(^^;
[9/1][漫画]
・仮面のメイドガイ (4)
[9/4] [漫画]
・ONE PIECE ワンピース (43)
・太臓もて王サーガ (4)
・スティール・ボール・ラン (9)
・るろうに剣心 完全版 (5)
・るろうに剣心 完全版 (6)
[9/6] [漫画]
・空手小公子 小日向海流 (24)
[9/7] [PSPゲーム]
・カプコン クラシックス コレクション
[9/8] [漫画] ★イチオシ!
・椿ナイトクラブ (1)
現在の少年チャンピオンでは「ゾクセイ」「24のひとみ」と並ぶお気に入り。
ドスにエクスカリバーと名前をつけて振り回す泣き虫怪力少女と、彼女に翻弄される幼なじみの少年を中心に描くギャグ漫画です。登場キャラが全員変態というのが素晴らしい。ちなみに表紙のドレス姿の子が幼なじみの少年。そう、登場キャラの中で一番ヒロインらしいのが男の子なのだ(笑)
[9/8] [DVD・映画]
・Vフォー・ヴェンデッタ
[9/15] [漫画]
・絶対可憐チルドレン (6)
・ハヤテのごとく! (8)
・クロスゲーム (5)
・School Rumble スクールランブル (14)
・さよなら絶望先生 (5)
・スミレ16歳 (1)
[9/15] [書籍]
・ネギま! パーティーBook ネギパ! (2)
「魔法先生ネギま!」ファンブック。毎月発売(全15回)の第2号です。Vol.1はこちら。
[9/15] [Windowsソフト]
・ARIA The ANIMATION デスクトップアクセサリー
[9/21] [DVD・アニメ]
・ザ・フロッグマンショー:古墳ギャルのコフィー (1)
・ザ・フロッグマンショー:秘密結社鷹の爪 (1)
・ふたりはプリキュア Splash Star (1)
[9/21] [Windowsゲーム]
・サクラ大戦 PREMIUM EDITION
[9/22] [DVDアニメ]
・ARIA The NATURAL Navigation.3
[9/26] [漫画]
・Rozen Maiden ローゼンメイデン (7) 初回限定版
フィギュア付き。お値段に注意。
[発売中] [漫画] [18禁] ★イチオシ!
・となりの精液さん
先日発売された上連雀先生の新刊。あらゆる性倒錯があっけらかんと明るく全肯定される、懐の広い世界観は今回も健在です。
「セックスの神様に謝りなさい!」は漫画史上に残る名台詞だと思います。
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喪黒福次郎の仕事
著者: 藤子 不二雄(A) 新品 Y 650
喪黒福造のキャラを反転させた善良な弟・福次郎を主役にすえたアイディア一発タイトル。
いまにも危難にさらされようとしている人に目をつけた福次郎氏が、あわやというところで介入して助ける内容だが、かといって素直に心温まる作品というわけでもない。あくまでも「笑うせぇるすまん」の存在を前提として成り立つ本作において、福次郎氏のもたらす救済オチは、読み手にものすごい屈折を与えるからだ。
たとえば第1話は、スナックのママによろめいた男が美人局(つつもたせ)のピンチを免れて家庭に戻る話である。無事に帰ってきた彼を出迎える妻の笑顔で物語が終わるのを目にしたとき、僕の中に渦巻いていた「さあ最後にひとひねり来るかな、来るかな」という無意識の身構えはあっさりいなされた。これがストレートな良い話であることをようやく理解したあとに残ったのは、何ともいえない、もやもやした気まずさだった。それは「笑うせぇるすまん」の文法に照らしあわせてひと味物足りないというもやもや感であり、そして物足りないと思う自分を認識してしまったというもやもや感だ。
分かりやすくいおう。つまり「笑うせぇるすまん」からの地続きで本作を読んでいくと、自動的に「人が不幸にならないことに不満を抱く」というイヤな自分と対面させられてしまう仕組みになっているのである。
劇中の闇をはらうことで、かえって読んでいる人間の腹に黒さを生じせしめ、しかもそれを否応なく認めさせる点で、本作はひじょーにタチが悪い漫画だといえる。
『ファンタジーの文法 物語創作法入門』から。
第38章「おとぎ話に耳をすますこども」より抜粋。
子どもが自分を守ることのできない悲痛な恐怖を感じるとしたら、物語で狼に出会う以前に、すでにその恐怖が子どもの中にあったのだと考えなければならない。恐怖はぬきさしならぬほど深く、子どもの内部に巣食っていたのだ。この場合の狼は、かくれた恐怖をあばいた徴候であって、原因ではない……
兄弟といっしょに森に捨てられた親指小僧のお話をするのはママであるならば、子どもは自分も同じ目にあうかもしれないなどと恐れずに、ちっぽけな主人公のあの有名な悪知恵に全神経を集中することができる。もし、ママもいなければパパもいないときに、だれかほかの人がこの同じ物語を聞かせるとすれば、こんどは子どもをおびえさせることになる。だがこれは、子どもが<捨てられた>という条件を再現しているからにすぎない。もしママが帰ってこなかったら? ここに突然の恐怖の根源がある。これこそ、<聞く軸>の上に投影された、意識下の不安と孤独の体験の影である。子どもが目を覚まして、なん度もなん度も呼んだのに、だれも答えてくれなかった、あのときの記憶である。
この記述は、恐怖だけでなく、フィクションに惹起される感情全般について敷延できる大事なことでしょうね。
ただ、現代社会では視覚を主にする強い同化体験のツールが充満しているので、「物語そのものが一次的な記憶になることはないのか?」という疑問もあります。
今回のトピックを創作のほうに適用すると、「読者層を考慮し、彼らがとくに強く記憶しているであろう感情の種類に対応したお話作りを心がけると効果的」 みたいなことになるでしょうか。それが外れた時は、まさに「ピンとこない」という評価が下るわけですな。
むずかしいのは、消費者はそれぞれ個人的な記憶で物語を受け止めるので、この話を与えれば全ての人にこの感情が生じる、みたいな機械的な公式は無いってことですね。ほんとうに、ごくごく大まかに見込みをつけて最大公約数を狙うしかない。その見込みのつけ方の巧拙が、いわゆる"センス"といわれるやつなんでしょう、たぶん。
じゃあ、僕のようにそんなセンスはまったく無い人間はどうすればいいのか。そこで、先人が試行錯誤してこしらえてくれた「様式」「形式」「ジャンル」「お約束」といった、つねに一定の感情惹起が見込める"お惣菜"が活用できるんじゃないかな、と思います。
といっても、選んだ様式が商売として成り立つくらいの支持が得られるかどうかを時代の流れにあわせて見極めなきゃいけないから、けっきょくはセンスの問題になってくるんですが(^^; どないせーちゅうねん。
■パワパフガールズZ
バターカップがサッカー少年をコーチするちょっといい話と、ミス・ベラムに懸想するラムキンスを無責任に応援するガールズのドタバタ話。面白かった。ようやく本作固有のリズムみたいなものが見えてきた気がします。AパートもBパートも、それぞれ異なる方向から「日本版パワパフ」じゃないと出来ない内容ですね。
うーむ、こうやって持ち直すと余計に、序盤のグダグダはなんだったんだろうという疑問が(^^;; 今回、変身システムの設定に強引な追加があったりしたのを見るに、思ってた以上に見切り発車な企画だったのかな?
■おとぎ銃士 赤ずきん
毎回毎回お話の運びがヌルくてユルくて、特にコメントする事もない……んだけど、それでもついつい観てしまう不思議。そうか、これがキャラクターの力ってやつか。あるいは釘宮マジック。
■ふしぎ星のふたご姫
ちびっこ委員長カワイス
■仮面ライダーカブト
ラテ欄に記載されたサブタイトルは「味噌汁昇天」。酷いけど本当にそういうお話(笑)
結局、俺の趣味には合わない類の悪ふざけだったなぁ。ただし終盤のステージ移動は"ジャンプしたら採石場"みたいな感覚で、むしろ良し。
■ふたりはプリキュア Splash☆Star
前回といい、サブキャラの影も形もない閉じたドラマ空間のなかでえんえん咲と舞の仲の良さを見せつけられるとひじょーに悩ましい気分になる。舞よ、その空気でなぜ押し倒さない!?(笑)
来週はダークフォールに侵入するみたい。満と薫に言及するかどうか。
ある一つの作品があって、門外漢が触れると強い感銘を受けるが、そのジャンルに精通したマニアは淡白な反応しか示さないということがある。それはマニアが同程度のインパクトをもつ作品をすでにいくつも体験しているからだ。感動を数量的に相対化するレベルに達するのは、悪くいえば「スレる」「慣れて麻痺する」ことだが、見方をかえれば「鍛えられる」「タフになる」ということでもある。スプラッタ映画のコアなファンなどは、その意味で「タフな消費者」といえる。
で、さらにそこから一歩進んで、例えば読書において、1冊あたりから受ける影響の濃度を希釈するためにたくさんの本を読む──ということを自覚的な目的意識として設定する人があるかもしれない。「影響を受けるのが恐いから読まない」ではなく、積極的な防衛として多読するスタイルである。
(ちなみに僕は本にしてもゲームにしてもただ漫然と嗜んで、ちょっと感心するとすぐに影響を受けてしまうタチだ)
けっきょく本当に強い影響力をもつ作品というのは、マニアの引き出しの中にさえインパクトを薄められるほどの作品がないものということになろうか。そのとき「比類ない」という形容はきわめて具体的な評価となる。
裏を返して、リリースサイドから考えてみる。
一つのジャンルで、お客さんの引き出しが増えて飽きが感じられ始めたときに、比類なきインパクトを生むための方策はあるだろうか。多分いくつかあるだろう。
いちばん簡単にして効果的なのが"ジャンル間の持ち越し/媒体間の持ち越し"だと思われる。「ある分野に詳しいマニア」は、「それ以外の分野の門外漢」である。ありとあらゆる分野を網羅する万能知識人は滅多にいない。それを突いて、他のジャンルの成果からいいとこどりをして別のジャンルへ移植してみせ、スレたお客をうぶな状態に引き戻してしまうのである。例えば、少年マンガに少女マンガの方法論を組み込むというふうに(スクランはそれで成功した面がある)。
だいたい、エンターテインメント全般において、大きな変革は媒体を越えた持ち越しが生むインパクトによってなされる傾向がある。映画史の黎明期に「記録する」「報道する」ドキュメンタリー的なものが主流だった状況で、ジョルジュ・メリエスが舞台演劇とマジックから「演じる」「めくらます(特撮)」という観念を持ち越してきたことの意義がそこにある。メリエスは映画が演劇のようにドラマを物語ることができる媒体であること、しかも現実を越える魔術的イメージを使うことができるということを示した。それが当時の人々に強烈なインパクトを与えたのだ。比類なきものは避けがたい影響力となり、やがて映画界はメリエスの描いた夢の色に染まっていくことになった。
こうした持ち越しによるインパクトとそれに続く変革は、エロゲーのように経緯が四半世紀もない媒体にさえ起こっている。映像面でいえばアニメーション、シナリオ面でいえばノベル系のシステムなども、おおもとをたどれば外の血を引き込んできたものであり、その当初は非常に新鮮なインパクトがあったのだ。アニメありのエロゲといえば、ソニアやZYXの諸作品のように、最初はそれだけをセールスポイントにできたくらいだ。
もし、あるジャンルや媒体で、お客さんがみんな慣れてタフな消費者ばかりになり、硬直気味の閉塞感が漂っているのであれば、内部に何か既存の良い素材が残っていないかと底ざらいするより、門外の、まったく無関係に見えるようなところへ題を取りに出かけてみる方が、よほど効果的なカンフルになる……かもしれない。
まとめ。
とりあえず、インパクトの法則として
・新しいものは刺激がある
・知らないものは新しい
というのをよく心がけて、ダマされないようにしたりダマそうとしたりしようってことですね(笑)
ああ、あと
・古すぎるものは新しい
てのもありますね。
古いネタ元があることを知らなかったり、知っていても直接に体験していないから、新しく感じられてしまうようなもの。
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「私のあしながおじさん」に続いて、「トラップ一家物語」を最終回まで観賞。
シリーズ通して大きなストレスもなく、一気に観ることが出来ました。
ナチス侵攻後、お話の中心に飛び込んでくる執事のハンスさんは……どうなんだろうねえ、彼は彼なりにスジを通したと好意的に解釈したいキャラなんだよな。あの立場の範囲内で最大にトラップ一家が破滅しないよう気を配っていたのはたしかだし。少なくとも「お子さん達が好きなのです」という言葉にウソはなかったと思う。
さて、次は何を観ようかな。
候補は「ロミオの青い空」「小公子セディ」「草原の小さな天使ブッシュベイビー」あたり。ロミオとセディは未見です。
『ファンタジーの文法 物語創作法入門』39章より抜粋。
直接には創作とは関係ないですが。
漫画は真に自発的で動機のある最初の読みものだ。読めと命じられたからではなく、何が起こるか知りたいから読むのだ。自分のために読むのであって、他人(先生)のためでもなく、いい格好をしたい(点取り)ためでもない。
(略)
漫画の場合には周囲の状況は単なる飾りではなく、叙述の役目であり、叙述の構造である。
さし絵とさし絵のあいだにある空間を埋めるには、きわめて積極的な想像力の介入が要求される。映画やテレビでは、映像は連続的にあらわれ、動作の流れを逐一そのまま伝えてくれる。漫画の場合は、あるコマで始まった動作は、つぎのコマですでに完結しており、そのあいだにある経過はすべて跳びこえてしまっている。はじめのコマでこれみよがしに勇ましく馬に乗っていた人物が、つぎのコマではほこりにまみれて倒れており、落馬の瞬間は想像してみるしかない。あるしぐさが最終的にどうなったかは目に見えても、途中の進行状況は見えない。つまり、登場人物はまったく変った立場であらわれるのだから、さっきの立場からいまの立場になるまでにたどった経過は想像しなければならない。その仕事はすべて読者の頭にゆだねられる。映画がふつうの文字表記だとすれば、漫画は速記術であり、そこから原典(テキスト)を掘り起こさねばならない。
(略)
ストーリーの全行程は想像力によって再構成されるべきもので、説明文のおしえるところを、対話や音声が示しているものと結び付けたり、絵図や色彩が示しているものと結びつけたりしながら、たくさんの裁ち切られた糸を、頭の中で、ただ一本の連続した糸につむいでいくのだ。漫画の舞台はこの裁ち切られた糸でできているので、そのよこ糸は長いあいだ目には見えないものなのだ。すべてに意味を与えるのは読者である。なぜなら、登場人物もその性格は記述されておらず、ただ行動の中に示されているだけであり、かれら相互の関係も行動とその展開からわかるにすぎず、行動そのものにしても飛躍した断片でしかあらわされていないのだから。
六、七歳の子どもにとって、これは充分に手ごたえのある仕事であり、論理的操作とファンタスティックな操作にみちた仕事であろう。 (略)子どもの想像力はただ受動的に脇役をつとめるのではなく、いまやおそしとその職務につき、分析したり統合したり、分類したり結論を出したりする。
(略)
ある点までは、子どもの漫画に対する主たる関心は、その内容に条件づけられるのではなく、漫画自体の表現形式や表現の実体に直接むすびついている、といえると思う。子どもは漫画の手段を自分のものにしたいのだ。つまり、<漫画の読み方をおぼえるために漫画を読む>のであり、その規則や約束事を理解するために読むのだ。登場人物の冒険よりも、自分の想像力の作業を楽しむのだ。ストーリーとあそぶのではなく、自分の頭とあそぶのだ。
ここでいう「漫画」は絵本に近い児童漫画のことですが、それでもけっこう普遍的な話になってるんじゃないかな。
漫画のジャンルと文法が開発されまくって煩瑣になっている現在では、表現のルールをおぼえるために読む局面は大人になっても続くような気がします。
積みっぱなしにしていたビデオをようやくサルベージ。
ジャケットがリバーシブルなんですね。裏は台湾版。
1988年 45分、カラー
監督:もりやまゆうじ
原作:西島克彦、白根一美
キャラデザイン・作画監督:もりやまゆうじ
3作目となる本作は、美青年K君に一目惚れしたA子と、その恋に横槍を入れようとするB子と、A子にかまってもらえずスネるC子……という図で相変わらずドッタンバッタン騒ぐお話。
恒例のカメオ出演に、「MADOX-01」のキャラやレモンエンジェルが顔を出す一方で猪熊柔やら山岡士郎が混じってる無節操さがご愛嬌でいいんですが……。
うーん。トータルな感想を述べると「あかんかった」(^^;;
アクションやスペクタクルを控えめにしておきながら、かといって恋愛劇もさほど突っ込んだ内容でなし。
いったい何だろう、キャラに頼って見せ場を作らないのがマズかった……のかな?
1986年に始まり1990年に終わるこのシリーズは、ようするに80年代マニア向けアニメの遺伝子が収滅しながら別の何かに上書きされていく過程の証拠物件でもあって、そのなかで5作中3作目という過渡期ど真ん中のポジションが、煮えきらなさの背景として見えてくる気がします。
直接的な、作品自体のテクニカルな問題については今更なので割愛。
男性の声→女性の声に変換するボイスチェンジャーがもっともっと進化してくれたら、同人エロゲーやエロボイスドラマの製作が安上がりになると思うのです。全キャスト自分。
ダース・ベイダー ボイスチェンジャー
新品 Y 3,499
大阪・南海難波駅近くの自販機で買ったネスカフェのコーヒー入り炭酸飲料「Sparkling Cafe」。炭酸の方がメインなんですか?
飲んでみるに、味は微妙。以前、ファミレスのドリンクバーでコーヒーとスプライトを混ぜて飲んだことがあるんですが、あの時の味に似てた。ひねりもなんもない、まごうことなき炭酸とコーヒーの融合体であります。
さらに、大阪・日本橋にある中国雑貨店の食料品売り場でココナッツジュースを一缶購入。漢字で「天然椰子汁」と書いてます。汁……。
味は、ええと、砂糖をぶちこんだ母乳みたい。
ありがとうございます。
某氏から、
▼萌えるラノベの作り方
黒石翁先生の自作メイキング本。キャラ作りの裏話とかいろいろ。
▼アイマスゾクセイ
松山せいじ先生のアイドルマスター本。
「エイケン」時代のおまけ漫画(クマちゃんのやつね)を彷彿とさせるサイレント式の漫画です。
某氏から、
▼垓路(がいろ)
▼薬局のポチ山さん2.0
▼灰羽連盟脚本集六集
安倍吉俊先生の画集準備本と、オリジナルギャグ漫画と、アニメの脚本集。
ポチ山さん面白い。
▼FREE and EASY 2
往年のスパイドラマ「ナポレオン・ソロ」のやおい小説本。
同人の原点ってこういうもんだよな、という香りがする良い本でした。
▼虹の門
ふたばちゃんねるの二次元裏ネタを詰め合わせた同人誌。
こういう本が製作可能なくらいに内部言語が充実しているという意味で面白い。
▼カイヂウ
アメリカのインディーズプロレス団体「怪獣ビッグバトル」のファンブック。
ボンクラに国境なし!
あと、「愛血吸白(あいちきゅうはく)」と書かれたチラシ入りのポケットティッシュも頂きました。ちょwwww
Amazonで、漫画「ARIA」の北米版が1〜3巻まで購入可能になってましたので、入手してみました。
(前日譚にあたる「AQUA」全2巻はまだ発売されていないもよう)
これが外観。ぱっと見では日本版と区別がつきません。
ただしペーパーバックなのでカバーは無いため、あの四コマ漫画や人物のプロフィールが載っていません。
では、中身を見てみましょう。
ARIAはキャラごとに定番の言い回しがある作品なので、それがどういうふうに翻訳されているか、ファンとして気になるところ。
以下、簡単に紹介してみたいと思います。ちなみに収録されてる話数は日本版、英語版とも同じです。
「さっきの虹が水たまりに落ちちゃったみたいだねー」
→ Doesn't it look like that rainbow from earier just fell right into this water ?
「…恥ずかしいセリフ禁止!」
→ You realy need to cut this out.
「ええ────」
→ WHA..?
出ました、藍華ちゃんの口癖「〜禁止!」(笑)
「Cut it out !」で「やめんかい!」という意味。まあ口語的にすり合わせた感じでしょうか。
しかしこの訳では固定しなかったようで、こんな風にも。
[第7話]
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「何だか昔話に出てくる妖精の住処みたいっ」
→ It looks like something out of an old folk tale. A place where fararies would live ...
「恥ずかしいセリフ禁止!」
→ That's enough outta you !
「ええ────」
→ WHAA ? !"
禁止というより、「んなこと言わんでええわ」みたいなニュアンス?
「outta」はout ofの略です。
で、最終的には以下の表現に落ち着きます。
「恥ずかしいセリフ禁止!」
→ Tacky comments are prohibited !
直訳で「〜 be prohibited」をもってきたのはいいんですが、tackyだと「ダサい」「野暮ったい」 みたいな意味だから、恥ずかしさのニュアンスが違ってしまいますね。
けっきょく本編ではこれが定着してしまいます。ちと残念。
これは暁さんが灯里と交わすおきまりの挨拶。
よう、もみ子!
→ What's up , pigtails ?
もみ子じゃありませんっ
→ My name is not pigtails !
PIGTAIL;ピッグテール(ブタのしっぽ)は「おさげ」のことですね。
逆翻訳すると「もみ子」(もみあげ)じゃなくて「おさ子」になってしまう(笑)
……それにしてもこのコマの灯里はめちゃ可愛いですな!
これはアリシアさんの口癖です。
あらあら
→ WELL , WELL
「あら」と「well」、どちらも間投詞(=感動詞)というやつですね。
活用のない自立語で、主語や修飾語にならず、独立して感情表現的に用いられるものです。
あらあら禁止──っ!
→ "WELL , WELL" is prohibited !
うふふも禁止──っ!
→ "HEH HEH HEH" is prohibited !
うふふは「HEH HEH HEH」なのか(笑)
その他。
・アリア社長 → president Aria
・「くるっぽー くるっぽー」 → COO ! COO ! COO !
・「狐の嫁入り」 → the fox wedding まんまやがな(笑)
・アリスちゃん初登場回の「でっかいお世話です」「でっかいお世話なんですけど」は「Will you leave me alone ?」と「Just leave me THE HELL alone ! 」(=かまわないで下さい)になっております。
・そこから発展してアリスちゃんの口癖となる「でっかい●●です」はまだ使用頻度が低いのでどう翻訳されるか微妙ですが、どうもそのまま「BIG」をあてるみたいです。
例).
「灯里先輩……でっかいボケです」
→ You're a BIG airhead , aren't you , Akari ?
ARIA (1) [英語版]
ARIA (2) [英語版]
ARIA (3) [英語版]
作者:Kozue Amano(天野こずえ) 新品:各¥1,100
平易で行儀がいい口語が多く、汚い言葉づかいは出てこない作品ですので、日常的な英語のお勉強をしてみたい方にはいい教材になるかもしれませんね。
ああこれで「終わり」なんだ、という意識が形成されたところへオープニング曲(作品の「始まり」)をぶつけることで、それが手がかりになって第1話から最終話までのひとつながりの体験が自動的に配列され、シリーズを通して累積した情動がいっぺんに押し寄せてくる、とか? そして全話ぶんの追体験をすることで、もうそこから先が無いということがあらためて深刻化され、強い切なさを生む……とか。
さらにいえば、そこから先がない「物語の終わり」というのは「目の前の世界との別れ」=「死」であり、押し寄せる記憶がもたらすものは、死に際して走馬燈を見るというようなことに例えられるのかもしれません。おそらくは、そうやってうまくお客を死なせて見送ってくれる作品が良い作品なんだろうな、と思います。表現を変えると、よく(作品からの)「卒業」とか「解放」といわれるやつですね。ラストでのオープニング曲の使用は、そのために自然とあみだされたテクニックのひとつなんでしょう。
ただ、たまーに、客と物語世界を死別させず、往生際の悪い延命措置を施してずるずる引っぱる企画もあるようですが(^^;;
こんなエロゲーをやってみたい。
ドアも窓もカーテンも閉めきった密室のなかで主人公とその男友達キャラがベッドの傍らに座り込んでえんえん猥談を繰り広げる情景を描くエロゲー。
彼らはヒロインをずっと待っている。
彼女はそのうちドアをノックして部屋に入ってくることになっているらしい。
主人公たちの話によれば、ヒロインは幼なじみで委員長で巫女さんで眼鏡っ娘でおデコちゃんで巨乳で生意気な妹でニーソックスを履いていて貧乳で料理が下手でツンデレで病弱でチャイナドレスを着て死神で金髪ツインテールでジャンヌダルクの生まれ変わりでお嬢さまでボーイッシュな陸上部のキャプテンで不良娘でドジっ娘で優しい姉でパンツをはいてない──そんな美少女キャラらしい。
ヒロインについて語るうちに濡れ場への期待感はいよいよ高まっていく。かぎりなく妄想はふくらんで、おにんにんもふくらんでいく。しかし、いつまでたってもヒロインはやってこない。
「じゃあ、ヌくか?」
「ああ、ヌこう」
と言いつつも、彼らは動かない。
ヒロインが不在である限り、エロシーンには永遠にたどりつかないのだ。幕。
さそうあきら「タマキトヨヒコ君殺人事件」読了。
人々のささやかに歪んだ心が生む殺人or殺人未遂を11編そろえた短編集。
……ひどく乾いた気分になるなあ、これ(^^;;
セックスシーンがどれも昆虫の交尾みたいだ(笑)
ふつう、都市の中心から外れた場所を舞台にしみったれた物語を描くと、情緒の絞りカスがこびりつくことである程度の湿度を(作者が意図せずとも)確保することが多いけど、しみったれていて、かつ徹底してドライなこの芸風はむしろ凄い。
情念によらず、機械的反射的な欲求"だけ"で殺傷がおこなわれるさまは、アンチ火サスとでもいえばいいのか、薄寒さ満点。そこには道徳や倫理の前提となるものがないから、悔いるべき「罪」も無い。それが恐い。
タマキトヨヒコ君殺人事件
著者: さそう あきら; 新品 Y 820
ワンピース THE MOVIE カラクリ城のメカ巨兵
新品 Y 3,694
借りて観た。
敵がショボいとか無駄にエロい(^^;;とか細かい問題はあるんだけど、最後のたたみかけのスケールが大きいんで楽しかったです。
ギア2の前フリは本編のフォローというより、今後の劇場版で使うためなのかな。ギア3までいけば映画の大きなスクリーンに映えそう。
「エーミッタム!」を刊行したサークルさんが新たに企画した同人誌は、作者・赤松健先生と『ドージンワーク』が注目される新鋭・ヒロユキ先生の対談を収録したファンブック形式の本だそうです。
イベント売りは8月27日のネギま!オンリー同人誌即売会「図書館島の休日〜2日目」にて。注目の一冊ですね。
【関連】
・ネギま!で遊ぶ
・図書館島の休日〜2日目
『ファンタジーの文法 物語創作法入門』45章から、ラウラ・コンティによる小論「『長ぐつをはいた猫』の弁護」の引用。
よく整った美しい文章なので、ほぼ全部書き出してみる。
……もう半世紀も昔になるが、子どものころ、わたしがどのように『長ぐつをはいた猫』を生きたか、お話ししたい。
何よりもまずこの猫は、その小さな主人やわたしと同じように、大きなものたちの世界の中の小さな存在だった。だが、長ぐつのおかげで、かれはとてつもなく大股で歩くことができた。つまり、小さいままでいながらその状態から抜け出すことができ、小さな猫のままでいながら大きな働きをすることができた。わたしもまた<小さいままでいながら><大きなひとと同じことをして>みたかった。それどころか、大きなものたちをかれらの世界の中で打ち倒し、その大きさ(歩の長さ)を打ちのめしてやりたかった……やがて、大−小の関係がことばそのものの意味、すなわち寸法を離れて、比喩的な意味を持つようになってきた。猫はからだが小さいばかりでなく、無用な存在として正当な評価もしてもらえないでいる。たとえば、家の中に猫が現れると、わたしのいやがらせの気まぐれが始まったと判断された。だからわたしには、無用の小動物が有力な仲間になったことがとても気に入った。物語の猫が何をしたかということはわたしにとって何の意味もなく、まったく忘れていたくらいである。<父母ジャーナル>を読んではじめて、かれが狡猾なやり手であったことを思い出し、俗悪な術策が問題なんだなと気が付いた。だがわたしにとって、猫の行為は問題ではなく、その結果が問題だった。というのは、子どもの気持をおとなのことばで表わすとすれば、<負けている方>に賭けながら<勝つ>ことができる、ということが肝腎なことだった(事実、遺産として猫をもらった子どもは、はじめはこの無意味な遺産のゆえに同情をひく存在だった)。だから、わたしを惹きつけたものは、小さいものから大きいものへ、敗者から勝者へという二重の逆転だった。勝つべくして勝つのはおもしろくなかった。<ありそうもない>勝利だからおもしろかった。
猫のもっていた二面的な性格(小−大、敗者−勝者)は、わたしが小さいままでいながら大きなものになりたいという逆説的な欲求だけでなく、猫が小さく、弱く、もろい存在のままでいながら勝者になるのを見る、というもうひとつの逆説的な欲求までも満足させてくれた。勝者と弱者が戦う物語では、わたしは強者を憎み弱者に味方した。だが、もし弱者が勝てば、かれはほんとうは強いのだと考え、したがって憎しみが湧いてくる危険がある。長ぐつをはいた猫の物語はわたしにこの危険を感じさせなかった。なぜなら、王との勝負に勝ちながら、かれは依然として猫だったからである。これは、ダヴィデとゴリアスのケースに似ていた。だが、ダヴィデが羊飼いのままとどまり、権力者ダヴィデ王にはならなかったと仮定してのことである。この比較はあとになってしたのではない。猫の話を聞いたのと同時代に聖書物語も聞いていたからで、羊飼いが王になったことは、わたしにとってちっともおもしろくなく、わたしが喜んだのはただ、ダヴィデが小さな投石機で巨人を倒したことだけだった。ダヴィデとちがって、猫は王を負かしながら、王にはならず、猫のままだった。
これを、ある種のヒーロー、ヒロインの様態にからめて考えると楽しいかもしれない。
たとえば長靴猫のイメージをぐいっとこねまわして「名探偵コナン」へつなげてみても、あながち暴論ではないと思う。いずれも肉体面において大人たちに絶対的な負けを強いられる弱者であり、その弱者のまま勝利できてしまう逆説的な存在だというところに願望充足のキモがみとめられよう。
コナン君が子どもの姿にされてしまうというハンデは、はじめは猫という<無用にみえる財産>を背負わされる境遇と同じものとして始まる。彼らの英雄性は、その財産の本質(小ささ・弱さ)を維持したまま強者との勝負に見事な逆転をおさめるところに拠る。
「猫は王を負かしながら、王にはならず、猫のままだった」
強いられた条件としての本質の維持、おそらくここがヒーローには肝要なのではないか。
眼鏡っ娘キャラの"素顔"が眼鏡をかけている状態だと考えるのと同じ意味で、コナン君を成り立たせる最優先の物語的本質は──元の姿に戻りたいという目的とは裏腹に──むしろ子どもの姿のほうにこそある。
「工藤新一という若者がコナンという子供の姿で活躍する」という設定なのに、ふとした瞬間に「コナンはコナンであり、工藤新一という"仮の姿"をもっている」という印象のほうが強くなってしまうのは、確かにそれこそが本質として描写されているからであって、けっして我々の錯覚ではないのだ。
もちろん、いつかはコナン君が本質的に変化してしまう(=工藤新一に存在の重心が譲り渡される)時は来るはずだが、それはすなわち作品そのものが終わる時だろう。巨人を倒したダヴィデが王になってしまった後のお話を長々と引きずっても興が削がれてしまうので、とっとと幕を引くしかない。
『ファンタジーの文法 物語創作法入門』第21章より抜粋。
ある周知のおとぎ話を、次のようにその筋の推移と内部関係の骨組みだけに還元してみる。
(中略)
ヘンゼルとグレーテルは兄妹である。ふたりは森で道に迷ってしまう。魔法使いがふたりを自分の家へつれてきて、かまどで料理してしまおうともくろむ……
この骨組みから表現を抽出してみよう。
AとBは場所Cで道に迷う。かられはDによって、ある場所Eにつれて行かれる。そこにはかまどFもある……
ここで新しい筋書きが生まれる。
ふたりの子どもが(おそらく南部から北部に移住してきた人の子どもであろう)、ミラノの大聖堂の中で父親に置き去りにされてしまう。父親は子どもを養っていくことができないので、すっかり希望を失くして、みんなの御慈悲にすがろうと考えたのである。ふたりはおびえながら町中をふらつく。夜になるとある中庭にはいりこみ、空き箱の積み重なっている中で眠る。何の気なしに家から出てきたパン焼き人がふたりを見つける。そしてかまどのわきのぬくもりの残っているところに泊めてやる……
(中略)
物語の結末は予期しがたい形をとることもあろう。なぜなら、パン屋がかまどで焼くのはパンであって、子どもたちではないからだ。(中略)こうしたことはどれも避けがたい力で起こる。そしていったん起こると、新しいイメージや意味が生み出され、それはそれなりに研究され解釈されることになる。
人がちがえば、<再話>もちがった道をとる。その道もそれぞれちがった<メッセージ>に通じていよう。だがわたしたちは<メッセージ>から出発してはいない。それは、意図しない到達点のようにひとりでに現れてくるものなのだ。
少なくとも物語の作り手にまわる場合、古典にかんする知識の多寡が戦力差につながるというのはロダーリ先生にかぎらず多くの識者の述べるところですね。
様式、形式、見立てといったものについて的外れな絶望(「新しい構成は存在しない」という事を「新しい物語は存在しない」と考え違いする病気)をもってると、なかなか感得できない話だけど。
で、こうして物語の構造においてくりかえし現れる主題の中で、とくに特徴的なものをウラジミール・プロップは<機能>(ファンクション)と呼んで31の要素に分類し、すべての民話はその組合わせで構成されているとした。
ロダーリ先生は<機能>を更に20項目にまで整理して、創作のとっかかりに利用できるようカードに書き出した。いわゆる「プロップのカード」というやつですな。プロップのカードについては次の章で解説されています。もともとはそれが目当てで本書を手に取ったのでした。
『ファンタジーの文法 物語創作法入門』15章より抜粋。
その子どもがお馴染みにしているお話をわざと間違えて聞かせるあそびについて。
パロディーの効果(原典からの離脱、新しい視座の獲得)については、同人やなんかの二次創作に通じる話にもなってるかも。
──むかし、あるところに、黄色ずきんという女の子がいました。
──ちがうよ、赤ずきんだよ!
──そうそう、赤ずきんだったわね。あるとき、おとうさんが……
──だめだな、おとうさんじゃなくて、おかあさんだよ。
──あ、そうだったわ。赤ずきんをよんで、こういいました。ロジーナおばさんのところへ、これを持っていって……
──おばあさんのところだよ、おばさんじゃないよ!
等々。
(中略)このあそびをするには、それにふさわしい時をえらぶことが大切である。子どもたちは、物語に関する限り、かなり長いあいだ保守的な存在である。はじめて聞いたときとそっくり同じことばをもう一度聞きたがる。それであらためてうなずき、はじめからしまいまで同じ筋を思い浮かべ、はじめて出会ったときの感動を同じ順序で、つまり、驚き、恐れ、安心という順序で、味わいなおす。子どもたちに必要なのは順序と確信である。だから、物語の世界が、かれらが苦労して乗せた軌道からやたらに離れてしまっては困るのである。
(中略)狼の出現はあらかじめ予定されていたことだ。だがそこに新入りが現れればかれらは不安になる。それが敵か味方かわからないからである。
あるときふと──赤ずきんちゃんがもはや感動的なものでなくなり、あそびあきてしまったおもちゃにさよならするとき──物語からパロディーが生まれるのを受け入れる。ひとつには、パロディーにこの離別を認める力があるからであり、ひとつには、新しい視点が物語そのものへの興味を復活させ、物語を別の軌道に乗せるからである。子どもがたわむれる相手は、もはや、赤ずきんではなく自分自身である。勇気を出して、恐れずに自由と対決し、危険にみちた責任を果たそうとする。そうなればかれらは健全だが度を超しやすい攻撃と、不合理の世界への果てしない跳躍に向かって心がまえをしなければならなくなる。
場合によっては、この遊びは臨床学的効果をあげるかもしれない。子どもをある観念から解放することがあるからである。脚色された狼を破壊し、人食い鬼をののしり、魔法使いをあざわらい、実世界──そこでは自由にならないことが多い──と想像の世界とのあいだにはっきりした境界線を設ける。これには時機が大切である。狼や人喰い鬼や魔法使いがその意義深い役割を果たしおわる前であってはならないし、また遅すぎてもいけない。
「時機が大切」というくだりに留意。
たとえばキッズアニメでは童話のネタをひっくり返したパロディが混在する作品を時々みかけますが、ああいうのを子供に見せるにしても、然るべき時期ってもんがあるんでしょうな。 前提となる正道を認識させる前に奇形を定着させちゃなるめえ、ということ。(アンパンマンくらいになると、すでにあれ自体が一次資料の域に達しつつあるからいいんだけど。ゾロリは微妙)
その意味で、「まんが日本昔ばなし」が再放送されてて、視聴率がそこらへんの新作アニメより高いってのはいいことかもしれませんね。せっかくだから世界昔話もやればいいのに。
ソーシャル・ネットワーキング・サービスも様々出てきて各社独自の色を出すのに懸命な様子。
そんな中、18禁ゲームを主とした二次元コンテンツに特化したものが先月からテスト運営を始めたそうです。
2次元専用SNS:「にこがみ≠」(にこがみのっといこーる) [18禁]
現在のところ、自分でメアドを登録すれば加入できるもよう。詳しくは解説ページがあるのでそちらをご参照あれ。
エロゲ関連の情報収集の一環としても利用できそうですね。
引き続き、ロダーリ先生の『ファンタジーの文法 物語創作法入門』から。
第6章「もし……なら、どうなるだろう」より抜粋。
<仮定は網である──とノヴァーリスは書いている──網を投げてみたまえ、おそかれはやかれ、何かかかるだろう>
という文章を前置きしてから、以下の通り。
<ファンタスティックな仮定>は、もっとも単純な技術である。その形は、まさに「もし……なら、どうなるだろう」という質問形式である。
この質問をつくるには、主語と述語を無作為にえらぶのがよい。このふたつを結びつけると、そこに仮定が動きだす。
かりに主語を<レッジョ・エミーリア>、述語を<飛翔する>にすると、<もしレッジョ・エミーリアの町が空を飛び始めたら、どうなるだろう?>
主語を<ミラノ>、述語を<海に取り囲まれた>とすれば、<もし、とつぜんミラノが海にとりかこまれたとしたら、どうなるだろう?>
これこそふたつの状況(シチュエーション)であり、それらの内部では小説的な事件が、自然発生的に、無限にふえていく。わたしたちは、臨時的な素材をつみ重ねることによって、この異常な新事態に直面するさまざまな人の反応や、誘発されるあらゆる種類の事故や、湧きおこる議論を想像することができる。これは、最近のパラッツェスキ(イタリアの詩人・小説家。1885-1974)の手法にあるコーラス形式の物語である。わたしたちはそこに主人公を、たとえばひとりの男の子をえらび、そのまわりに、ハプニングのあるメリーゴーラウンドのように、冒険をくりひろげることができる。
これは先に書いた「対」の効果を実践にそくして用いる方法ですね。
まず主語と述語の突飛な組合わせによって自分で自分の意表をつくようなシチューションをこしらえてから、その状況の具体的な内部について自問し、想像をどんどん展開させていくというやり方。シュールレアリスムでいう「デペイズマン」に通じる発想でしょうか。( ただロダーリ先生の仮定法では、あくまでお話を作る本人が真っ先にファンタジーな異境を味わう情操教育としての側面を重視していますが)
上の文章以外では、こんな例が上げられてます。
「もしシチリアがボタンをなくしたら、どうなるだろう?」
「もしワニが君たちの家の戸口をたたいて、ローズマリーを少しくれと言ったら、どうなるだろう?」
「もし君たちの乗ったエレベーターが地球の真ん中に落ちるか、月の上にひょっこり現れたら、どうなるだろう?」
初期設定自体はわりと機械的にできますよね。いまならネット上にその手のジェネレーターがごろごろ転がってるし。
機械的なぶん物語として昇華しにくいシチュが飛び出してくる可能性もありますが、それこそ想像力の働かせどころだと。
【関連?(笑)】
火曜サスペンス劇場予告ジェネレーター
引き続き、ロダーリの『ファンタジーの文法 物語創作法入門』から。
第5章「<電燈>と<靴>」より抜粋。
子どもは誰でも、父親や母親の靴をはいてあそぶ。<自分のもの>にするためだ。もっと背が高くなるためだ。だが、もっと簡単にいえば、<他人>になるためだ。変装あそびは、その象徴的な意味は別にして、そこから生まれるグロテスクな効果によって、つねにおもしろい。それは演劇である。つまり、他人の状態にわが身をおくことであり、当事者になることであり、ひとつの生命をつくり出すことであり、新しい所作を発見することである。父親の上着を着たり、おばあさんのスカートをはいたりすることが、ふつう、謝肉祭で仮装する時にしかゆるされないのは惜しいことである。家庭ではいつでも変装あそびができるように、古着を入れた籠を用意しておくべきだろう。
みんなが親の靴を履くかどうかはともかく(笑)
たしかに、身近な大人が使ってる品物を身につける戯れは、子ども心にドキドキしましたよね。
ロダーリ先生は小学校教師の経験がある童話作家でしたので、この本でいうファンタジーとか物語創作(の技術)というのはどれも児童教育に収束する体裁になってます。でも普遍的な話でもあるので勉強になる。
今回でいえば、 物語の創作や消費は自分以外の何者かの生命をなぞる変装あそびと捉えることができますね。これは子供に限ったことではない。
んでもって、えーと、オチとしては「なりキッズは悪くないよ」とかそんな感じで(笑)
……そういえば、海外でもああいう子ども向けの変身ごっこコスってあるのかな?
ふたりはプリキュアSplashStar
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浴衣姿の金髪幼女が真剣な顔で金魚すくいしてるのを背後からじーっと見つめてたら逮捕される夢を見た
さきほどのエントリの補足です。
「対(つい)は要素に先んじる」の続き。
少なくとも物語の中においては、天才とかヒーローというものを単体で完結したものと捉えるんじゃなくて、それと非・天才(=凡人なり秀才なり悪党なり、決定的に隔たったもの)が対になることではじめて成立にいたる、と考えることも出来るかもしんない。
天才は凡人に、凡人は天才に意味的な相互依存をしており、両者をぶつけて火花を散らせることによって物語世界を活かす。
これは天才を見て、あまりの能力の違いで劣等感に陥ってしまう僕のような愚才には救いがある考え方です(笑) 個々の能力のギャップで是非を問うんじゃなくて、ギャップがある者たちの対立や結びつきそのものが大事なんだという。(具体的には演劇物とかスポーツ物などを想定してます。選手対選手、選手対観客、師匠対弟子)
そう書いたところで、ふと、『寄生獣』で「あわせてひとつ」という考え方が出てきたのを思い出しました。
ほとんどが単体で完成するパラサイトに対して、対をむすんで成り立つ「ミギーとシンイチ」が生き生きして"強い"のはなぜか、ということで、ミギーだけ、シンイチだけを分けて考えても仕方ないもんね。
そして、あの漫画がとんでもないのは、最初は「天才と凡人」の対みたいに見せかけて、じつは「天才とヒーロー」の対であったと明かすところなんだろうな(笑) 「ミギー、防御たのむ」は、それが明かされた瞬間だったからあれほど印象的だった。
余談。
ラブロマンスにおいて「別れ」のモチーフがああも魅力的なのは、対が解消される→関係が意味的に終了する絶望感を味わう、「死にひたる快楽」があるからかもしれない。
で、「雨降って地固まる」式の話は、いったんバラけて死を迎えた対が再生するという、"蘇り"の感動を描いてるから心地よいのかもしれない。蘇りは奇跡だからね。
先月、やっとジャンニ・ロダーリ『ファンタジーの文法 物語創作法入門』を読了しました。
いろいろ考え所が多くて面白かったです これから何回かに分けて、気に留まったところを抜き出していこうと思います。
以下「ファンタジーの文法 物語創作法入門」4章より。
「火花を散らすにはひとつの電極ではだめで、ふたつ必要である」という例えから続いて。
だから、精神が誕生するのは闘争の中であって、平穏の中ではない。アンリー・ワロンは、その著『子どもの思考の起源』の中で、思考は対で形成される、と述べている。<やわらかい>という観念は、初めから形成されるのでも、<かたい>という観念のあとから形成されるのでもなく、一般化という闘いの中で同時に形成されるものなのである。つまり<思考の基本的要素はこうした二重構造であり、それを形成している個々の要素ではない。対とか組とかは、孤立した要素より先にあるものである>。
上の抜粋では前後をカットしてるので分かりにくいですが、ここで言っているのは、ごく基本的な、物語の発生条件についてです。
2つのことば(=観念)を対立項にする作業──
たとえば、何かの拍子で「犬」と「たんす」みたいな全くかけ離れたことばをぶつけたとき、それらが同居する物語をつくるため、生きた想像力が働く。そしてそこにファンタジーが発見される、という話。
[例]
「犬、たんす」。へんな組合わせだ。
「たんすを背負った犬」なのか、「犬のたんす」なのか、「たんすの上にいる犬」か、「たんすの中にいる犬」か。
一体、それはどういう場面なのか、なんでそんな状況にあるのか。ああ、きっと犬は●●して××だから、たんすに▲▲したのだ、そして……
という具合に物語をつくっていく方法もあるんだよ、とロダーリ先生は言ってます。原初的なことばあそび、意味の生成から始める道ですね。なにも大上段なテーマとかキャラとかビジュアルイメージから話をつくるばかりが創作じゃない、と(笑)
また、逆に言うと、「たんす」という単語一つだけがぽつんとそこに佇んでいても面白くはないということにも注意しなくてはいけません。一見すると関係がなさそうな「犬」と対を組むことでまったく新しい意味をはじき出す何か別のモノとなり、物語としての刺激を生むと。それが先に書いた、電極がふたつ必要ということ。
具体例をひとつ挙げてみると、航空パニック物で、パイロットとは全然関係ない職業の人間が操縦桿を握ることになるという展開がよくありますが、あれは「飛行機+●●●」で火花を散らすパターンですね。
その他に、ちょっと話を延ばすと、バディ(相棒)物の大原則、かけ離れたもの同士を対にせよという方法論についても言及できそうです。
つまり「プリキュア」というタイトルはファンタスティックな二項式であり、それは個別の<キュアブルーム>、個別の<キュアイーグレット>いずれか一方だけでは成り立たないのであります(強引なオチ)
長くなるのでいったん区切ります。続きはこちら。
▼「ユナイテッド93」公式サイト
▼「スーパーマンリターンズ」公式サイト
観てきました。
次元は違いますが、どっちも9.11以降アメリカがナイーブになってる部分に精神的な帳尻を合わせるための映画という意味では距離が近いかも。
[追記]
ああ、ジェイムズ・マーズデンはサイクロップスに続いてまたこんな割をくう役か!(´・ω・) カワイソス
寺田寅彦随筆集(第1巻)収録の「丸善と三越」より。
ウィリアム・ジェームスの心理学の中に「音楽の享楽にふける事でさえも、その人が自分で演奏者であるか、あるいはその音楽を純理知的に受け入れるほどに音楽的の天賦を有するのでなければ、その人の人格をゆるめ弱めるという結果を生ずるだろう。……この弊を矯(た)めるには演奏会で受けた感動を、その後に何か主動的な方法で表現しないではおかないという習慣をつければいい。それはどんな些細な事でもかまわない。たとえば自分の祖母にやさしい言葉をかけるとか、乗合馬車で座席を譲るとかいうくらいな事でもいいが、とにかく何かしないではおかないようにするがいい」という一節がある。
(略)
しかし美しい芸術が人の心に及ぼす影響はすぐその場で手っ取り早く具体的な自覚的行為に両替して、それで済まされるものだろうか。それではあまりに物足りない。たとえ音楽会の帰りに電車の中でけんかをし、宅(うち)へ帰って家族をしかったりする事があるとしても、その日の音楽から受けた無自覚な影響が、後におもいもかけない機会に、ある積極的な効果として現れる場合がかなり多いのではあるまいか。
影響の受け方について。
「この小説/漫画/映画/ゲーム/etc.のおかげで人生(生活)が変わった」ということは誰しもありえるわけですが、その変化というのは、必ずしも、まるで栄養ドリンクを飲んで即座に効果が出るかのように分かりやすいものばかりとは限らないという話。
・轟轟戦隊ボウケンジャー THE MOVIE 最強のプレシャス
・劇場版仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE
総合点ならボウケンジャー>>カブト
部分点からカブト>ボウケンジャー
てな感じでしょうか。
カブトは正直えらく景気の悪い内容でしょっぱかったですが、設定面の興趣でだいぶゲタを履いてます。これってテレビ本編とどこまで重ねてるのかなあ、と想像を巡らせるのが楽しい。
絵ヅラでは、終盤にカブトとガタックが横並びで突入→クロックアップで天のはしごを一気に駆け上がっていく流れがかっこよかった。
半年ほど前のトピックですが、"キャラをバラ売りするエロゲの可能性"について話題になってたのを見かけたので、今更だけど一筆。
最近、実際にバラ売りをやった例として、ポアシャラの「守ってあげちゃう!」シリーズというのがありました。これは資料的な意味でもうちょっと注目されてもいいんじゃないかな。
簡単にいうと、「守って〜」は舞台と主人公を共通させて、
一作目:ヒロインAのパッケージ
二作目;ヒロインBのパッケージ
三作目:ヒロインCのパッケージ
四作目:ヒロインDのパッケージ
五作目:全ヒロインが総出演する完結編
という流れで発売された短編連作タイトルでした。内容自体はあくまでシンプルな抜きゲーですが、企画形態の面で評価すべきところがあると思います。
とくに、バラ売りでありながら、単純にバラ売りだけで散漫に終わるのではなくて、その一歩先にまで踏み込んでいるところが重要です。つまりバラ売りから出発し、あとで統合することで、"キャラが共演する図を見る快楽"というボーナスをひねり出すことが出来るわけで、これはなかなか利用価値があるんじゃないかと。
たとえばまず最初にたくさん単体のヒロインを何人も出しておいて、出尽くしたら、それ以降は「今回はこのキャラとこのキャラ、次はこのキャラとこのキャラ……」みたいに、カップリング売りみたいな局面に入ってみたりね。
……いや、そこまでいくと、むしろユーザーの側でバイキング方式にできる方法を発明したほうがいいのかな(笑)
とにかく、「最初からみんな居合わせている」のと「最後にみんなが居合わせる」のでは大きな違いがあるので、そこを有効活用することを含みに入れた広い視野でバラ売りを試してみるメーカーさんが出てくれないかな、と期待してます。じっさいはいろいろ難しいだろうけどね。
『寺田寅彦随筆集』第一巻「丸善と三越」より。
「三越に大概な物はあるが、日本刀とピストルがない」と何かの機会にたいへん興奮してP君が言った事がある。「帯刀の禁止、決闘の禁制が生んだ近代人の特典は、なんらの罰なしに自分の気に入らない人に不当な侮辱を与えうる事である。愚弄に報ゆるに愚弄をもってなし、当てこすりに答えるに当てこすりをもってする事のできる場合には用はないが、無言な正義が饒舌な機知に富んだ不正に愚弄される場合の審判者としてこの二つの品が必要である。」これには自分はだいぶ異論があったように記憶する。しかしその時自分の言った事は忘れてただP君のこの言葉のみが記憶に残っている。
「三越」を「ネット」に置き換えても通じますな。
そして個人的にはP氏の暴論にちょっぴり賛同したくなったりもする。
寺田寅彦随筆集(第1巻)
編集:小宮豊隆 ¥693
岩波文庫
チンピラがヤクザのブツに手をつけたのが発覚し、期限内に返済しないと殺すと脅される。で、地元のお人好し家族をたぶらかしてブツの調達を手伝わせるも、だんだん情にほだされてしまうというお約束の筋立て……を、ガキ向けの動物キャラでやってるところがユニークなアニメでした。
個人的にマッチポンプ話が嫌いなのでそのぶんは点を差し引きますが、それでもなお面白かったです。
駄作と傑作の振れ幅が大きい日本アニメ産業の現状を鑑みるに、こういう"コンスタントに生産される佳作のひとつ"にはうらやましい気分を味わわされてしまいますね(笑)
けっきょくのところ歴史の大系や一般大多数の記憶資産として最後まで残るものは、ある作品(一次資料)が存在したという事実のみであって、評論という寄生言説ではない。その意味で、評論は狭い範囲に納得を与える以外には何らの益をももたらさぬ絶望的な営為かもしれない。
ただし、作品が長く年経て古典化しきった状況(=実際に作品の内容をチェックする人間の数はめっきり少なくなったが、作家名やタイトルは広く定着している状況)において、その作品がどんなイメージでどんなふうに価値付けられるかには、それまでに語られた評論群によって世間に醸成された"空気"がきわめて大きな影響をもたらす。
評論の作品に対する勝利とは、内容の分析という目先の戦術よりもむしろ巷にいかなる雰囲気を提供するかという長々期的戦略のなかに存する。
創作論なるものは「創作のマニュアル提供」ではなくあくまで「創作に関する思想表明」であれば、必ずしも論者にプロフェッショナルな実践・実績がともなう必要はないし、また語っている論の内容がすべて正しい必要もない。べつに実作家ならずとも──読み・観賞・プレイの消費専門であっても──"創作物と関係を結ぶ"ことに変わりないので、みなひとしく創作についての観念を内在させ、言語化することができる。創作についての信念を語ることは送り手・受け手を問わず何人にも許される。
ただし、創作のマニュアル提供を自ら標榜しておいて実践や実績がともなわない人間に限っては、その正誤に関わらず説得力を欠き、失笑の対象とされてもやむをえない。技術を示すということはある程度以上確実な再現性を示すということであり、その再現性の証明は実作してみせるしかないためである。
少なくない数の作品において、物語の筋が特殊な状況を要請しない局面では必ず特権的地位に配置されるキャラクターが存在する場合がある。ことがいかなるドタバタした混沌に至っても、その人物だけは喧噪のなかでひとり澄ました顔を保ち、狼狽せず、みっともなさを常に免除されるタイプのキャラクターである。
物語が柔軟に流動すればそのキャラの特権が翳りをみせることはあるが、作家の芸風や人間観によっては、劇中のヒエラルキーが不動になっており、イジる人物はイジリ続け、イジられる人物はイジられ続けるという永遠の権力関係が根座っているケースも多い。
二次創作による同人作品では、そうした特権的なキャラを性的な段取りによって侵害したいという欲求に応じるものがよく出てくるが、真の問題は手続きではなく目的であり、あくまでも固定・硬直した権力構造を解体することが肝となる。その目的下では、じつのところセックスでも恋愛でも殺傷でも単なる会話でも、手続き自体はいくらでも互換が効く。
また、それとは逆に、どんな手続きを使っても結局そうした特権キャラには叶いませんでした、という仕立ての同人作品が生産・消費されることも、勿論ある。これは原典のもつ権力構造を肯定的にとらえている場合に、その構造の盤石さを確認してここちよくなるためのものである。
二次創作における、反乱への欲求と、構造堅持の欲求。
どちらに与するかは、われわれが各々、劇中のどの階層のキャラクターに肩入れするかによろう。
【件名】
篠宮=女軍曹さんからのお便りです
【本文】
▼ニックネーム:篠宮=女軍曹さん▼
■よし、準備は完成した。安心しろ、こんな私だが部屋は綺麗だ。
何丁かのガンがディスプレイしてあるが気にするな。すぐに慣れる。貴様の為にこぶ茶まで用意した。あとは大福だ。この組合せは日本人が何たるかを教えてくれる。今どこだ?もう18時になるが来れるのか来れないのかはっきりしろっ!!
やっべー!!! ちょっと心がグラついた。
こんなエロゲがあったらやってみたいよ。
英国ウェールズの離島へ人間狩りにやってきたプレデターもどきのエイリアン軍団と、テレビの超常現象リポート番組の取材班&地元住民の血みどろバトルを描いたスプラッタSFコメディ。
「キチガイじみた化け物が襲ってきたら襲われた連中はもっとキチガイで返り討ち」という、漫画でいえば石川賢めいたノリが素敵。農夫一家の親父がキャラ立ちすぎてます。
後半、たたみかけ不足で21世紀の「ブレインデッド」になりそこねたのが残念。バナナの皮で滑って転ぶ宇宙人とか細かいネタにこだわらんと、血と臓物と首チョンパをもっとインフレさせてれば……。