ちうわけで、相性診断は河童娘が出てきました。案の定。
「ぺとぺとさん」、キャラ人気投票結果
これ、投票対象にシンゴの妹、こぬりちゃん、ぺと子ママなんかの二次サブキャラ組が入ってなかったんですよね。あの子らが選択肢にあれば3位〜5位あたりの結果がかなり違ってたと思うんですが。
本編の感想。
みにょコン話の前編ラストから後編(河童姉妹の和解編)のドタバタで人物のエモーショナルな変動幅が釈然としなかった(シンゴの泣き台詞の盛り上がりが先走りすぎてるとか、ちょちょ丸の行動を動機でフォローしきれてないとか)んでシリーズ評価がちょっと下がりかけたんですが、その次話でやってた物産展の地味な描写がある意味リアルで笑えたため印象持ち直し。依然として好きなアニメです。
原作はまだチェックしてないので「アニメ化」の手腕としてどうこうは分からず。
引きこもってせこせこ原稿書いてました。
あと『よつばと』4巻読みました。みうら嬢がオメガ可愛いのでどうしてくれようかと妄想に耽りかけるも時間が足りないので保留。
一日中引きこもって原稿書き。
そして明日も。
今月終盤は日記には不向きな生活が続きます。あひゃん!
子供のころ「風邪がぶり返す」という言い回しが大好きでした。
なぜだか「ぶり返す」の語感がやたらとツボにはまったらしいのです。
ただ返すだけじゃない、「ぶり」返すという強調っぷりが面白かったのでしょう。ぶり。ぶりぶり。確かになんだか下品なサウンドエフェクトっぽくて子供の卑語嗜好に訴える響きがありますよね。でも魚のブリにはあまり興味を示さなかったあたり不思議です。
どうでもいいですね。ええ。
フィクション作品を楽しむにあたって、ひとつのタイトルの完全な個別的体験というのは当然あるはずもなく、つねにその前後の生活体験との文脈によって印象・感想が規定されてきます。
ノンストーリー系演出過剰ゆるゆる萌えアニメ100本を観た後でさらに「ぱにぽに」を観る場合と、ド重い文芸映画100本を観た後でひょいっと「ぱにぽに」を観る場合では、同じ人が同じもんを目にしていても体験の意味はまったく異なってきますよね。
また、単純に睡眠の過不足やちょっとした虫の居所など心身のコンディションだけでも感じ方は違うし、人生の転機になるような一瞬を迎えでもしていたら、そのわずか数秒間の前後でもモノを見た印象は正反対にもなりえます。だから「作品の感想は人それぞれ」どころではなく、人ひとりにおいてさえ感想は各状況でそれぞれかもしれないのです。
その文脈を忘れて「あの人はこの作品についてこう言っていた、今もこれからもそうだろう」「俺はあの作品についてこう思った、今もこれからもそうである」と硬直的に参照するのは思考の幅をきつく狭めかねません。逆にいうと、コメントしている主体の体験の文脈を少しでもつかんで、どんな言説もある一時点における暫定的な情動の産物であるという側面を心に銘じておけば、自他のある種の前言撤回に対してとても寛容になれるのではないでしょうか。「あの時はあんなこと言ってたくせに!」の論法は、時として人間の在り方に対して不当な糾弾になる危険性をはらんでいます。
[まとめ]
おなかいっぱいの時に食べるごはんと腹ぺコの時に食べるごはんは同じメニューでも舌心地がちがうという、ごくあたりまえの話。
来月、9月20日にメガネっ娘をテーマにした商業本が発売されます。
お兄ちゃん軍団がメイン執筆で、僕は小論文とキャラ紹介を書かせていただきました。妹コレ・姉コレが創作中心スタイルだったのに対し、こちらはキャラクター大辞典+αという内容になってます。キャラ紹介ページではメジャーなアニメからマイナーな漫画まで、メディアを問わず選りすぐって賑やかしくなっておりますですよ。まさか仕事で『屈折リーベ』や『ヨガのプリンセス プリティー・ヨーガ』に言及する日が来ようとは夢想だにしなかったこの人生。
題名、価格、表紙のビジュアルなど詳細はまた後日お知らせしますが、とりあえず先行報告まで。よろしくメガネ!(G-onらいだーす風に)
外へ出ても映画を観るほどのヒマはなく、本屋とコンビニを物色してはすぐ帰る日々が続く。
本屋ではとりあえずエンターブレイン系の棚を無目的にながめて、最初に目に付いた山川直人『口笛小曲集』と『コーヒーもう一杯』(1)をカゴに入れる。さすがに20代も後半になるとアップテンポな漫画ばかりでは気力が保たないので、滋味のある作品にも手が伸びるようだ。年を食うと肉から魚に嗜好が変わるようなもんでしょーか。
あとは『キューティーハニーSEED』(2)、『バキ外伝 疵面-スカーフェイス』(1)、今週の少年ジャンプを購入。なお、俺の中で現在のジャンプは「食べてもアゴが疲れない白身魚」のポジションです。
まあエロゲに限らずオタ向けアニメでもマンガでもライトノベルでも何でもいいんですが……。
1.主人公が問題状況を抱えており、少女のアシストを得ながらそれに挑む
一般的な成長物語。場合によっては少女は応援者や見届け人どまりで、主人公は独力で解決にあたる事も
2.少女が問題状況を抱えており、主人公がアシストしてやってそれに挑む
近年多くの恋愛系。とりわけ泣かせの系統に見られる。場合によっては主人公が完全に無力な傍観者となる事も
3.・主人公そのものが少女の問題状況となって向かっていく
陵辱、鬼畜ゲー等、侵攻性の高い類型
4.少女そのものが主人公の問題状況となって向かってくる
SFやファンタジーを含む、広義の「押しかけ女房」類型
※また、1,2,3,4いずれか複数の複合タイプもありうる。
これは例えばLeafで「雫」から「痕」を経て「ToHeart」へ至る流れは「1」→「1+2」→「2」への直線的な遷移だったとか、そういう話です。
えーと、最近は「4+2」「4+1」が多い、のかな? キャラ立ちの強い伝奇モノだと「4+2+1」とか問題がごった煮の作品も珍しくないですが(^^;;
Amazonで予約注文していたDVD「クロウ 飛翔伝説」デラックス・エディションが発売日を迎えて、無事に到着。我が魂のタイトルがようやく手元に確保できて幸せを噛みしめる。いちおうVHS版は持ってたけど状態が悪かったんで、これでいつでも鮮明なブランドン・リーを堪能できます。
なお、うれしいことに吹替えは以前にやってたTV放映時と同じキャスティング。マイケル・ウィンコット演じるトップダラーのCVやってる麦人さんが素晴らしいです。
映画館なのに、図書館でもあるんです [日刊!ニュースな本棚]
ああっ、なるほど。僕は学生時代に司書資格コースで図書館学を学びつつ暇なときに映画館へ入り浸ってた身なのに、これは今日の今までまっっったく思いつきもしませんでした(^^;; 完全に盲点だった。そうだよなあ、リピーターの多い映画館なら、図書館サービスとひじょーに馴染みやすいよなあ。
もちろん、直接に目先のお金にはなりませんが、お客さんの中で「その場所へ行こうという動因」が補強されるのは、長い目で見たらじゅうぶん商業的な意義があるんじゃないでしょうか。
って、そうやって何でもお金に帰結するから思いつかなかったんだよ(^^;;
結局こういうアイディアはまず志が先にないと出てこないんでしょーな。
いまだかつて、恋愛系ゲームの主人公で真から無個性・没個性だったものはないような気がするんですが、どうでしょうね。
まずゲームの主人公というのは、作品のタイプによって「名有り」と「名無し(名前入力可能)」に分かれます。で、固有名をもった主人公の場合は初めから当人のキャラアピールが売りになるのでここでは論外に置きましょう。
問題は、たとえばノベルゲーム隆盛以前から続く古式ゆかしい恋愛シミュレーション物における、名無しで容貌もぼかしてあるような主人公です。彼らのつくりは「感情移入のために個性を薄くしてある」なんてよく言われています。けれど、実際問題として「特定の状況で特定の発言・行動を選ぶ」という形でストーリー進行の主座に置かれる以上、どうやっても主人公には「心的輪郭」があらわれてくることになります。キャラをどんなに無口にしてどんなにテキストを無味乾燥にしても、物語のベクトルやゲームのルールや目的が有限であるかぎり、そこから性格の基盤は規定されるのです。
そもそも人物造形をおこなう製作スタッフだってそれぞれ己一人の心をもった生身のヒトであるからには、万人に対して不偏中立といえるキャラを描写するのはまず不可能と思われます。
たとえば「ときめきメモリアル」「センチメンタル・グラフィティ」「Noel」「卒業」「エターナル・メロディー」「シスター・プリンセス」などの有名タイトルは、プレイヤーが無色透明な主人公を操って美少女たちと対面する様式の代表みたいに評されがちですが、あれらも冷静に一歩引いて観察すると、主人公はそれぞれが何とも言えない特有の臭みをもった振る舞いをしていることが分かります
*1
。皮肉めいた言い方になりますが、「無個性な主人公」というものを構築するうえで、スタッフ個人やメーカーごとの個性が出てしまうわけですね。ただ我々は画面上の主人公のふるまいを、名前というチャンネルを通じて自分の言動として吸い上げてしまうからそれを捨象しやすいように出来ているのです。
恋愛ゲームの画面構成がああいう一人称的になっているのは、プレイヤーと主人公の即物的な視覚情報を一致させ臨場感を高めるのと同時に、視野を一致させることで両者の思考を強引に共鳴させてしまう効果があります。重要なのはプレイヤーに主人公と同じ物を見せることではなく、物を見て同じことを考えているかのように錯覚させることなのです。
とはいえ、やはりもともとは製作スタッフという他者の手で作られたキャラですから、完全にはプレイヤー側で主人公の思考と同調しきれない時がある。そういう時に「リアルの俺だったら絶対こんなことしない(出来ない)ぞ、何やってんだこの主人公」というギャップが生じます。そのギャップこそが「俺とは違う、この主人公自身の個性」が成り立つ瞬間でもあり、それはゲームを進めていくなかで実は頻繁に発生してるんですね。そうして主人公はプレイヤーの分身でありながら、独自独歩の存在性を画面の向こう側に確立させていくのです。その個性がプレイヤーの意識を刺激するいい調味料になって、ゲームをより楽しくするのです。
けっきょく本当におもしろいゲームってのは、名前があろうが無かろうが、ユーザーの同化・共感が破綻しないぎりぎりのラインを攻めながら主人公のキャラを立ててしまう作品なんじゃないかと思います。煎じつめるに恋愛シミュレーションとは自分が直接ヒロインと恋をする媒体ではなく、「ヒロインと恋をする若者という他者」をロールプレイする遊戯媒体ということになるでしょう。当たり前っちゃー当たり前の話ですな。でもこれをしっかりおさえておくと、ひとつのゲームやひとりのヒロインにハマりこんで心中するような野暮に入らず、とても身軽に(節操なく(^^;;)いろんなタイトルをとっかえひっかえ楽しむことができるようになれます。
[まとめ]
恋愛ゲームの主人公は、皆ことごとくが(プレイヤーとは異なる存在者としての)個性をもっており、それを味わいながらロールプレイするのが面白い。
また、主人公に名前がないことと個性がないことは別である。
……まあこんな御託をぐだぐだ語るまでもなく、たとえば「TLSS」でステキなエロ発言をかます主人公に個性がないなんて口が裂けても言えないわけですが(^^;;
[追記]
ついでにいうと、ハーレム系エロコメで「平凡な主人公」ってのも信用しちゃならん説明ですな!(笑)
リクィド・ファイアのいずみの氏による論考。以前からオフ会でお話されていた内容がとうとう正式なテキストに起こされ、公開の運びとなりました。
「萌え」という語を広く把握するところから始まり、「萌える」という行為を我々がキャラクターの内面に入り込んで自己(の愛情を)投影するというモデルで説明、更にその「内面へ入る」ためのとっかかりとなる「入り口」を重要な要素として取り上げています。
「こっちの作品やキャラにはすんなりハマれるのに、あっちにはどうしてものめり込めないなあ」と感じることは誰しもよくありますが、そうした作品ごとの敷居の低さ高さが生じる理由が、この「入り口論」を読むと腑に落ちてきます。具体的な例では、男性にとって『あずまんが大王』と『苺ましまろ』では後者のほうがハードルが高いタイトルなわけですが、それは何故か……ということがよく分かります。もっといえばそうしたハードルが高い作品でも入り込める受け手がいるのはどうしてか、ということも。
ちなみに僕がこれまで「妹祭り」「姉祭り」等のイベントで発表してきた"消費者と作品の窓口"にまつわるネタ *1 は、いずみの氏のこの考察の影響によるところがひじょーに大きい(ぶっちゃけると影響どころか「元ネタ」なんですが!)ので、是非ご参照ください。
[追記]
応用として、たとえば『白蛇伝』に始まる東映のまんが映画でいつも原典にはない小動物キャラが主人公のお供にねじ込まれていた意味なんかを考えるのにも、この入り口論は役立ちそうですね。「萌え」が「好き」「可愛い」と全互換できる概念だとすれば、子供が感じる「萌え」と、その入り口も当然あろうはずですから。……現在だとミポメポいってるやつらを「メガネくん」的なとっかかりにしてプリキュアという客体的主人公へ心理的に近接するお子さまとか(笑)
山田恵庸「チャンバラ 一撃小僧 隼十」全2巻、講談社コミックス
週刊少年マガジン2002年45号〜2003年12号掲載(18週打ち切り)
古流剣術の跡取りとして単身での修行ばかり課せられ育った少年が、人と剣を交える機会を望んで現代剣道界に挑戦するお話。転校先の学園で校内剣道大会に優勝して剣道部に仲間を作るまでの経緯を描いて完結。
いやー、劇中でまいた種から出た芽をまったく獲りこぼしてないのがすごいですね。
わずかコミック2巻ぶんの量だと、たいていは読み終わって「アレはどうなったんだ?」とツッコむところがあるもんだけど、この作品の場合はそれがなく、ただ純粋に「彼らはこれからどんな活躍をしていくんだろう」とその後の日々に想いを馳せることが出来ます。この収束力にはとにかく舌をまきました。
要するに超長期的な伏線を張るような欲をかかず、適度に目先をこなしていったのが結果的に良かったんでしょうね。ちなみにこれと正反対でズッコケるのが、例えば『男坂』のような壮大な構想を投げっ放す場合なわけですが(^^;; 喧嘩鬼とかキボウとか結局何だったんだ、みたいな。
なお、個人的なツボとしては終盤の赤尾先輩のプレイングに拍手喝采。あんたそんなキャラ隠してたのか!!!(笑)
[追記]
この作家さんが描く女性キャラは健康的な艶っ気があっていいなあ。なんかドキドキする。
現在進行中のお仕事で引用するかもしれない文章をメモ。
(略)異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである。永井荷風が『歓楽』のうちで「得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない」といっているのは、異性の双方において活躍していた媚態の自己消滅によってもたらされた「倦怠、絶望、嫌悪」の情を意味しているに相違ない。それ故に、二元的関係を持続せしむること、すなわち可能性を可能性として擁護することは、媚態の本領であり、したがって「歓楽」の要諦である。しかしながら、媚態の強度は異性間の距離の接近するに従って減少するものではない。距離の接近はかえって媚態の強度を増す。(中略)媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。
色恋沙汰をあつかったアニメ、漫画、ゲーム等でのキャラクターアピール(いわゆる「萌え」)は、この「媚態」という概念と深い関係があるのでもうちょい研究しとこうかな、と最近心がけております。
さわりだけ述べておくと、初手から好感度MAXタイプのキャラってのはある側面においてものすごーく「野暮」な存在なんで、そういうキャラが増えすぎた時代の反発力もどこかで生じているんじゃないかな、という話をするときに、上で引用した文章はとても参考になるんですね。
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ジョン・カーペンター 〜人間は悪魔にも聖人にもなるんだ〜 映画作家が自身を語る
ジョン・カーペンターがインタビューを受けて経歴をなぞりながら悲喜こもごもの自分語りをかます一冊。客観的なデータではなく、彼の映画監督としての性格資料という主観的意味で参照したい内容です。自身の映画の世界観やキャラクターを作る上での定義や持論があれこれ開示されていてファンは必読。
「ヒーローというのは、目的がひとつしかない人物のことだ。そのただひとつの目的がなんであるか、その目的が邪悪であるか軽薄であるかポジティヴであるかにかかわりなく、それがヒーローなんだ。手帳を十五冊も持っているヒーローになんか興味ないね。そんなのドラマとしておもしろくない。ヴィジョンがひとつしかないこと、目的がひとつしかないこと、それがヒーローを決める。彼は殺人者かもしれないし、良い手本となる人間ではないかもしれないが、それでもヒーローだ。『タクシードライバー』を見てみればいい」
ジョンカペ基準でもやっぱりトラヴィスはヒーローなんですな!(笑)
原作・山田風太郎、画・石川賢。全5巻。
時空を越えて平行世界「もうひとつの江戸時代」から侵略してきた徳川忍者軍団と戦う現世の江戸時代の柳生十兵衛を描いたお話。この奔放すぎる展開の前ではあの怪映画「IZO」すら霞んでしまう。
途中打ち切りのため思いっきりぶん投げた未完ラストになっているが、それはあまり気にならない。家康の出自が割れた時点で後は収拾をつけて折りたたんでいくだけの流れだし、そもそも石川賢先生の漫画だからね。
個人的に本作のキモは第3巻、宮本武蔵の暴走シークエンスだと思います。キャラクターというものに関する考えを根底からグラつかされてしまいますよ。すげぇ。
読書ってもマンガばっかりですが。
丸川トモヒロ「成恵の世界」第8巻
本巻のメインエピソードともいえる「時台屋の女房」に思わずホロリ。
ジュブナイルの次元に咀嚼されたSFマインドもさることながら、この世知辛いご時世にあって気恥ずかしいくらいの「ちょっと良い話」を物語ることを恐れないその基本姿勢こそが丸川センセの偉いところだと思う。
古賀亮一「新ゲノム」第1巻
掲載誌をコミックメガストアに移しての仕切り直しだが、内容は完全に地続き。
シリーズ初期は先鋭甚だしく思えたパクマン氏の奇言奇行も、読者が古賀亮一作品のコメディ文法に慣れた今ではすっかりアベレージヒッターの観あり。
巻末に収録されているおまけマンガは『忠犬ディディー』のディディーとパクマンの共演ということで興味深く読んだが、ディディーがどんな状況にもへこみを持たないキャラなのでひじょーに噛み合わせが苦しい感じがした。
車田正美「男坂」全3巻
最後の硬派を描くというコンセプトに意気込んで連載が始まるも時は1985年、すでに学ラン戦争の絵ヅラを一次生産するには絶望的な時期であり、それよりも当時のマンガ少年たちに訴求したのは熱血を自己分解する作家・島本和彦による「炎の転校生」(1983〜1985)なのだった。
けれどこの「男坂」という作品、短命がゆえの悲壮な疾走感によって、なまじダラダラと続いて立ち消えになる場合よりもよほど強烈にラストシーンを印象づける結果になったのが皮肉なことでもある。
本編よりもコミックスの作者前書きを続けて読むと泣ける。
選択肢によって分岐進行するノベルゲームにおいて、我々は単に「その後の展開」を決定しているだけではない。未来に何が行われるかが決定されるという事は、さかのぼって「それ以前」の選択主体(主人公)の目的、心情、性格気質といった基盤、すなわちスタート地点でのキャラの内面が後付けで確定されることをも意味するのである。
[CASE1.]
反社会的な言動をみせる悪党な主人公→困窮している女の子キャラと出会う→選択肢/弱みにつけ込んで犯っちまうぜヒャーホー!→女の子を肉奴隷に。主人公高笑いで己の道をゆく。
主人公は根っからの悪党であるという内面が決定し、最初の言動は素から出てきたものだったということになる
[CASE2.]
反社会的な言動をみせる悪党な主人公→困窮している女の子キャラと出会う→選択肢/その苦しみが俺には分かる!何とかしてやりたいぜウワーン!→女の子を救済、精神的フィードバックを受けた主人公は更正する
主人公は根っからの悪党ではないという内面が決定し、最初の言動はうわべだけの露悪だったということになる
かくのごとく、分岐式のノベルゲームにおいて、ある一つの場面で誰が何をしても、選択肢で前後関係がつながるまで、その絵ヅラには内的意味が固定しない。プレイヤーが選択枝を選ぶまでは、未来の状況だけではなく、キャラクターの過去の言動の意義もまた不透明なのだ。
したがって同じゲームで同じ主人公で同じ攻略対象でも、選択肢によって人間の内実がまったく正反対になることが多々ある。「シナリオライターが違うのでルートごとにキャラの性格が違う」なんて指摘を受けるゲームをよく見かけるが、実際はそれどころか選択肢ごとに性格の核心が大きくブレるのだ。
もっというと、ゲームでは人間に「本質」ということばに相当する内面価値が構築されておらず、我々プレイヤーにそれを組み上げる権限が与えられているということでもある
*1
。
そのためマルチ展開するノベルゲームは、本質主義的な傾向を備える物語媒体
*2
とは異なる評価の軸でキャラクター、とくに主人公の真価を計られるのである。
Amazonからメールが届いた。
8〜10日で発送可能となっていたDVDの注文から1か月待たされた果てに、「入手できる見込みだったので受け付けたけど、やっぱ無理だったんでキャンセルしまーす」という通達だった。まあモノが無いのは仕方ない……とはいえ、なんだか釈然としない対応だなあ。もやもや。
話には聞いてたけど、ほんとにこういうことあるんだねー。
1992年、押井守監督・脚本。実写。
監督が失踪して内容不明になっているアニメ映画の企画進行にからんで、スタジオ内で繰り広げられる連続殺人を描いた不条理サスペンス。
この映画そのものがひとつの映画論であり、アニメ制作論であり、また同時にそれらをダシにしたギャグであり……とにかく自己言及式の「ぶちまけ」作品としてひじょーに楽しかったです。
たぶん舞台演劇にかんする素養があれば深くつっこんでコメントできそうだけど、残念ながら僕はそちらには全く疎いので、とりあえず表層的に奇人変人大集合の図を堪能しておりましたよ。色指定の安田ツインズとゾンビ化した半田原デスク(立木文彦)がお気に入り。うひゃひゃ。
ブラックマジックM-66
人型ロボット兵の暴走と鎮圧を描いたSFアクションアニメ。士郎正宗原作で、本人が総監督・脚本・絵コンテまで担当した完全なお手盛りOVA。人間の情念にまったく踏み込まない内容だから気楽に観られていいなあ(笑)
「ネギま」茶々丸のデザインソースということで前々から気になってたタイトルでしたが、本日ようやくチェックできました。
怪獣ゴルゴ
1959年、イギリス製作の着ぐるみ怪獣映画。ゴルゴ幼獣を輸送するシーンで実物大モデルを使っているところに感銘を受けた。ガッパもスペクトルマンも観てないので後発との比較は出来ず。
コメンタリーを何故か木原浩勝と雨宮慶太が担当している(いくら好き者とはいっても、いまいち釈然としない人選やなあ)。木原氏が、空襲経験のある国で怪獣が暴れる絵ヅラの説得力について言及してたのが印象に残った。
ツールボックス・マーダー
トビー・フーパー監督の最新作(だよね?)。リメイク物だそうですが、元作品は未見。
スプラッタよりも異常建築物マニアへのアピールぎゅんぎゅん。たまらん。
ブルーフィルム 青の時代
フランスの好事家の遺品から見つかった、1905〜30年にかけての短編ポルノ映像を収録したアンソロジーDVD。異性・同性のからみがシームレスに描写されてるのが興味深い。具体的にはレズプレイに男が割り込んでむにゃむにゃするスタイルが妙に多いってことなんだけど、これは時代の空気か、映像を所有していた好事家さんの個人的趣味なのか?
1925年ごろのエロアニメなんてのまで収録されてて、資料的にいい収穫でした。
唐突に関西ローカルの話題。
かつて読売TV系列で「アニメだいすき!」という、季節ごとにOVAを特集放映するワクがありました。番組のOPとEDにはツカミのいい音楽をバックに、ちょっとした作品寸評の文章なんかも出てきたりして、単なる時間埋めではないマニア志向の強い構成になっていたように覚えています。少年期にこのワクでアニメにドはまりして人生踏み外したヒトはけっこう多いはず。もちろん僕もそのひとりであります(^^;;
『アニメだいすき!』で放映された作品リスト
僕がチェックしてたのは90年代に入った後期からだな。そういえば「天地無用」もここで観たのが初見だったか。
よく見ると「ヤンキー烈風隊」の翌日に「モルダイバー」をやってその次が「東京BABYLON」とか狂った取り合わせのシーズンも(笑) こんなラインナップを夕方に垂れ流してたんだから大らかな時代だったんだなあ、としみじみ。
それに、まず「OVA」という形態に一種特別なありがたみがあった頃だから成立した観もありますね。いまはTVアニメが深夜帯でマニア傾向を強めたうえ短期で即DVD化されるのと、衛星番組などが「非・地上波」企画の受け皿となったことでOVAの立ち位置があやふやになってしまったような気がします。
まあ、おいそれとテレビ放映できないエロアニメ分野だけは昔の「OVA」気質を色濃く残してますけれど。
使いどころにもよるけど、最近はオタ向けコンテンツの評価語において「萌え」「燃え」以上に「馬鹿」に脊髄反射的思考停止ワードとしての限界を感じます(^^;;
例)「●●●●●●は今期最高の馬鹿アニメ」
計算高い悪ふざけによって演出される「おバカ」はリリースサイドから視聴者へと与えられる笑いであって、意図されない天然物の滑稽さを消費者側が見出す「馬鹿」とは区別しておかないと、作品に対して的外れな分類や評価を下すことになるんじゃないか、なんてふうに一抹の危惧を覚えなくもないわけであります。不当に褒めすぎたり不当に貶しすぎたりね。
また、かつてはラジオドラマやなんかで「外典」だから許容されていた、リリースサイドが消費者を共犯関係で囲い込む手法が本編で最初から見込まれているという閉じ方はタイトルあたり億単位の金が動く商業プロの売り物としてギリギリの次元にあるんじゃないか、とも。逆にいうとそこまでやらないといけないほどに行き詰まってる状況があるのかもしれませんが。
そういえば近年さかんになってる予告のネタ小芝居も同様の問題につながるかな。あれって最初に始めた作品は何でしたっけ。ビバップあたり?
本筋の合間に挟まる番外的エピソードなのでキャラ遊びを入れとくか……というお軽いノリで火をつけたら大爆発してやけどした感じ(笑
今後のテーマにつなげるため真面目にこなしたかった部分まで前後の笑いの流れに巻き込まれてしまってるのが面白すぎる。具体的にはルージとガラガが涙ながらに「導く人が必要」云々いってるところですね。シリーズの視野ではシリアスなんだけど、同時にこのエピソードの中ではただのボケになっているという二重性が素晴らしい。
狙ってやったとしたら恐ろしく狡猾な脚本だなあ(^^;; たぶん偶然やらかしちゃったんだろうけど。
無敵団の全滅シークエンスについては、視聴者をオチでずっこけさせようと前フリを作っただけではなく、あれ自体が半分以上故意犯的なギャグでしょう。