どこかで聞いたことがあるような題名ですが、深くツッコまないよーに。
PCゲーム/18禁
『おまえのなつやすみ』
発売 2004/03/26
対応OS Windows98/Me/2000Pro/XP日本語版
価格 3980円
ブランド FlyingShine黒
シナリオ:石埜三千穂/原画:長岡建蔵/音楽:さっぽろももこ
[あらすじ]
「夏休みはハワイで過ごすぜ!」とご近所中に自慢しまくっていた兄妹が不測の事態で旅行に行けなくなった! 恥をかくのを恐れたふたりは、やむなく窓もカーテンも閉めきった暑苦しい家の中に閉じこもって予定の期間をやりすごそうとする。しかし、兄はハワイへの夢と欲望をなんとか補完したくてたまらず、妹にキテレツな行動を次々強要していくのだった……というお話。
[review]
こりゃ面白い。
出発点となる設定の奇に頼るだけでなく、その設定を足場にしてきちんと各々のキャラクターを活かし、エロコメディーを構築している良作です。
基本的にお話は、主人公と妹、それに途中で登場する従姉の計3人がひたすら家の中に引きこもってヨタ話を繰り広げ、合間合間にはずみで濡れ場に突入するという流れを延々繰り返すだけ。けれど、ボンクラを徹底しつつも実は計算高いダイアローグの積み重ねによって、単調なのにまったく飽きが来ない内容になっています。
つーか、「ハワイ」というコトバひとつをこんなに強烈な原動力に使ってる物語は初めて見た。
もちろん主人公のビジュアルが不動アキラ(デビルマン)である必然性はまったくない(^^;んですが、これは劇中の濃さと暑苦しさをより高めようという演出上の判断でしょう。性格的には、不条理なオレ様ムードで強引な理屈を展開して女の子を丸め込もうとする様子が「ゲノム」のパクマンを彷彿とさせます。(アレよりはもうちょっと鬱屈してますが……)
で、そんな主人公に騙されまくる妹キャラも兄に負けず劣らずのボンクラ指数を誇っていてステキ。リアクションのさじ加減が絶妙で、うっとうしくなる寸前で可愛さに転じているので愛着を持てるのが良いですね。
濡れ場での二人称変化「兄貴」→「お兄ちゃん」の使い方とか、ごくまっとうなツボもきちんとおさえながら造形してあります。巧い。
いやぁ、これは本当に気に入った。
最近の喜劇系エロゲーでは久々のホームランです。
追記:
絶頂シーンの花火が脱力感満点……(^^;
フロイト曰く「映像で思考することは、ただきわめて不完全な意識化である」とのこと。
でもそんな簡単に片づけられてもなぁ、と。
……えー、なんというかうまく表現しきれないのですが、
幼い子供のころ、僕はほとんどの時間、映像でモノを考えて生きていたような覚えがあります。
過去の出来事を想起するにしても未来の何事かを想定するにしても、とにかく頭の中でいじくる観念の素材はただ絵的なイメージのみで、言語文章を用いたモノローグはまったくといっていいほどおこなわなかった……という時期が、かつてたしかにあったように思います。(だから人との会話や読み書き作文はかなり反応・反射的な作業だった)
それが変わってきた時期はわりと明確に覚えていまして、小学校から上がり中学生になってまもなくの数ヶ月間、ふと気づくと自分がまず文章(文字言語イメージおよび発音しない仮想音声)を使って思考していることに気づく瞬間がたびたびあり、やがてその頻度が次第に高くなってきたのです。
そして今では映像と文章の両方を適宜取り混ぜて思考しているのですが……
果たしてこれは一般的な成長過程の結果なのかそうでないのか?
他の人たちはいったいどういう素材によってモノを考えているのか? そして子供のころと大人になってからでその思考様式に違いはあるのかどうか?
また、いわゆる天才と呼ばれる人間には我々凡人では想像も付かないような思考方法があるのではないか?
などなど、あれこれ気にはなりつつも、あえて周りの人に尋ねる機会もないまま現在に至っております。
うーん。
どうなんでしょうか。
Leaf TVアニメ『To Heart 〜Remember my Memories〜』 制作決定
[情報元:カトゆー家断絶]
なんとなくサブタイトルがマルチのシナリオを連想させるのが気になるところ。
あるいは時期的にみて、東鳩2とのタイアップか??
仮に第1作の再アニメ化だとしたら──もちろん、Leaf黄金時代を目の当たりにしてきた人間としては歓迎するにやぶさかではないものの、ただ、やっぱり新規タイトルへの意欲よりも遺産を食いつぶす向きが勝ってるような最近のLeafの印象と重なって一抹のほろ苦さを覚えます。
個人的にはセリオと坂下さんの再登場はあるのかどうかが全てだったりするんですが。
院生時代、西洋文学系の講義で「身近な物事を題材にしてアフォリズムを吐いてみよう」という課題が出た事がありました。
で、友人と一緒にネタ出しをしてみたところ、これがなかなかに難しい。
簡単に考えていたらえらく陳腐な哲学語りになったり、既存の名言・格言の模倣になったりしがちなのです。卑近な具象から言語的に美しく鋭い抽象を切り出せる文豪のボキャブラリーってすごいなぁと感心してしまいました。
そんな中、友人が作った箴言のひとつがこれ。
(うろ覚えだけど大体は合ってると思う )
みやも : おお、なんかもっともらしいな。
友人S : せやろ?
みやも : で、何についての警句なん?
友人S : ロンドンブーツ1号2号。
みやも : ……うーん。
友人S : 分からへん? これはつまりな、素人イジりばっかりしとる芸人は──
みやも : いや、解説せんでええから。
ちなみに僕が作ったのはTVのリモコンと人生の目標をかけて「日々の暮らしの中で見失いやすいものは」云々という句で、提出したら教授(助教授だったかな?)に鼻で笑われました。ぎゃふん。
魔女っこde'GO♪GO♪ ポールとミラ☆クル大作戦 [るチャ!]
うひゃひゃ、ダメすぎる!(^^; (←褒めコトバ)
ああ、もー色々言いたいことがありすぎてかえってうまく整理できないです。
とりあえず以下に要点だけ箇条書きにしときます。
[良かったポイント]
・徹底した喜劇精神。軽く浅くをとことんまで推し進めることで、ひとつの極まりを示している。
・単に「魔女っこ」を素材にするのではなく、更にひねって「魔女っこモノをパロディするエロゲー」自体を半ばメタ化して、バカをやりつつ一歩引いたところで楽しませる故意犯&確信犯っぷり。
・脇役の作り込み。ライバルキャラの万丈が素晴らしすぎる(^^; あと、三人娘はぜひ今後も出し続けて下さい。
・商品寿命の短さを自覚して、あえて意欲的に時事ネタを盛り込むノーフューチャーっぷり。ロングセラータイトルの生産など最初から度外視して、あくまでその場その場のあたりを積み重ねて手数で稼いでいく姿勢をネタにも反映させている。ためらいがないぶん威力が高いです。アメリカ大統領に喧嘩売る発言とか。うひゃ。
[あかんかったポイント]
・「誰にとってそのネタが面白いのか」という根本を踏み外したギャグがそこかしこに目立つ。作り手のやりたいネタ・やれるネタを次々と盛り込んでいく反作用で、かえってユーザの興趣を萎えさせる場合多し。
・やたらと脇役の押し出しが強い一方で、本来プレイヤーが視点を仮託する存在である主人公をないがしろにしすぎている。
・上の項目と関係して……女性キャラの用法が無神経すぎる。メイン格の少女キャラと他の男キャラを接触させるのは、少なくとも現在の市場ニーズではひとつのリスクだという意識がもうちょっとあった方が良いんじゃないかなぁ。
→基本的にエロゲーのユーザーは「主人公を媒介して自分が気持ちよくなるために」作品をプレイする。サブキャラのアクションをただぼーっと眺めるためではなく。
・90%以上が共通ルートって……(^^;
[総評]
まとめると、全編通してエロを完全に殺すほどアクの強いギャグに波長を合わせることが出来るかどうかです。ツボにハマればひじょーに良い意味で「ダメだこりゃ!」と腹を抱えることができます。
もし肌に合わなければ、「これってとーぜん面白いよね?ねっ?」というなんか勘違いしてる独りよがりな若手漫才師を見る時と同じイライラ感が足を引っ張ってくるわけですが……しかしそれこそがるチャ!の真骨頂でもあるんで、一概に否定もできないか。
ともかくも、どんなに問題は多くとも、ネタを追求するメーカーとして今後も期待を抱かせるに充分なのは確かです。
個人的には「ママさんバレー」くらいまでが作り手と客との乖離が起きないちょうどいい限度だったと思いますが。
「太陽にほえろ」“長さん”、俳優の下川辰平さん死去 [ZAKZAK]
つらい話題が相次ぎます。
世代的に僕は再放送組なんですが、それでこのショックですからリアルタイム観賞をしていた心底のファンの心中やいかばかりか……
話によると、きたる4月からまた多数の新タイトルでTV画面がにぎわうそうです。アニメの量的バブルは相変わらずのようでありますな。
しかし個人的にはこの2〜3年、シーズンを重ねるごとに視聴量が減っていき、いまでは片手の指で足りてしまう程度にしかリアルタイムの作品を観なくなっているのがなんともはや。
4月スタートぶんだけでも30をゆうに超える新番組があるというのに、積極的にチェックしたいと思うのはわずかにその10分の1程度しかないのが正直なところです。
キン肉マンII世 アルティメット マッスル
この日記でも何度か話題に上がりましたが、日本でのシリーズ終了後に続編が制作されてアメリカで放映、向こうで人気を博してこのたび逆輸入される形になった……という異色のタイトルです。
あの強烈な女性キャラも登場(笑)
鉄人28号
「ショタ」の由来となった少年キャラが今ここに!(笑)
鉄人といえば、以前、原作から数世代後の世界を舞台にしたシリーズが作られてましたけど、やたら現代的デザインにこびを売ったふつーのロボットものに改悪されてて憤慨した記憶があります。.
今回のはあくまで横山光輝のビジュアルに回帰したアニメ化のようなので、お話の方に専念して注目できそうです。てか、逆にあまりにも絵面が忠実すぎるもんだから、今の若手アニメファンにどれほどのアピールがあるものやら心配してしまうのですが(^^;
今やってるアトムは割とそのへんのさじ加減が上手いような気がします。内容に関しては賛否あるだろうけど。
魔法少女隊アルス
天才ビットくん(天才てれびくん金曜日)内にて放映。
情報がないんで中身がいまいち見えてきませんが、この公式サイトの絵を見た限り、なかなかカオティックな映像思想が楽しめそうですね。……って、雨宮慶太センセがからんでるのか。
うむむ、なんだかこれまでに何度もあった「あなどれないNHKアニメ」の匂いがするぞ。
ギネス認定のヘビ使い、コブラにかまれ死亡 [asahi.com]
どんな奇なる芸であっても、一事を極めて果てるというのはある意味で崇高な生きざまだと思います。
真似はしたくないけどね。
余談。
一般的に有名な蛇使いといえば笛(プーンギ)をピロピロ吹き鳴らしてヘビを操ってみせるエンターテインメントの方ですが、あのヘビは実際には笛の音ではなく、使い手が笛をゆらゆら動かす仕草に合わせて動いているのだそうな。
よく考えれば、ヘビには聴覚が無いですもんねえ。
2004年度ゴールデン・ラズベリー賞「最悪リメイク・続編」部門ノミニー(^^;
2003年、米国 99分
日本公開日 04/03/20
監督 マーカス・ニスペル
製作 マイケル・ベイ
マイケル・フレイス
原案 トビー・フーパー
出演 ジェシカ・ビール
エリック・バルフォー
ジョナサン・タッカー
R・リー・アーメイ
配給 日本ヘラルド映画
公式サイト
[あらすじ]
アホなヒッピー5人組がキチガイ家族に襲われて血みどろに殺されちゃうシドイお話。
もうちょっと具体的なところは『悪魔のいけにえ』('74)参照のこと。
[review]
本タイトルの原題は『THE TEXAS CHAINSAW MASSACRE』。
そう、言わずと知れたスラッシャーホラーの金字塔『悪魔のいけにえ』のリメイク作品です。
作品の権利関係で『悪魔のいけにえ』リメイクという事実を宣伝に使えなかったため、おおもとの史実であるエド・ゲイン事件を下敷きにしたというタテマエを掲げるなど、事前にいらんところでミソがついたタイトルでしたが、フタを開けてみれば存外に健闘しております。
『バッドボーイズ』『アルマゲドン』『パール・ハーバー』と、金を湯水のごとく浪費するだけの脳タリン映画を撮らせたら右に出るなしと悪名高きマイケル・ベイ製作という点で期待値が低かったせいか、思いがけずまっとうな仕上がりには「よく頑張った!」と褒めてあげたい気分になれました。
たしかにまあ、冷静にツッコめばアラはたくさんあるにはあります。
説明過多な構成は明らかに作品に対して不純物ですし、レザーフェイスの扱いが杜撰であるとかヒロインの判断能力の低さが感情移入を妨げるなど、問題点はいくらでも洗い出すことが可能でしょう。
そもそも原典である『悪魔のいけにえ』は偉大なる変態監督トビー・フーパーの偉大なる変態性のおかげで30年経った今でもなお観る者に新鮮なインパクトを与えるオールタイムベストな映画ですから、それを焼き直すというのは極めて分の悪い勝負に出る蛮勇なわけです。何をどうやっても旧作の信者が比較して文句を付けてくることは確実。いくらマイケル・ベイでもそれは分かっていたでしょう。
しかし、製作首脳陣はそれでもあえて困難な素材に挑戦しました。その芸人根性(というか度胸)は、素直に感心できる価値があるんじゃないかと僕は思うのです。
カメラワークや演出を含めて、映像はとにかく小綺麗にまとまっています。
あまりにまとまりすぎてて舞台設定上必要な暑苦しさに欠けるきらいはありますが、少なくとも激しい心理的圧迫をともなうハイテンションな動的感覚は原典に匹敵する良い出来です。肉厚たっぷりな巨漢なのにやたら機動力の高いレザーフェイスの勇姿をとらえる数々の映像にどっぷり惚れましょう。
これは撮影を『悪魔のいけにえ』と同じダニエル・パールが担当しているのが大きいですね。
また、キャスティングでは何といっても『フルメタル・ジャケット』の鬼教官でおなじみリー・アーメイ様が最高でした。目に付く者全てを口汚く罵る変人保安官を熱演したこの御方がいなければ、本作はもっともっと評価が低かったことでしょう(正直、アーメイ氏が画面の中で強烈に輝き過ぎており、それが本来のウリであるレザーフェイスの印象を薄くした観があるほど)。
作品全体の評価はさておいて、この御方の健在なお姿を拝謁するためだけでも劇場に足を運ぶ充分な理由になります。
追記:
かなりアレンジされた物語のクライマックスでは、ブチギレたヒロインによってアーメイ様がトンデモないことに……。
18日付のエントリの内容に関して、友人Sから「ワケわからん上に笑えない。とりあえず40字以内の短い文章にまとめて述べなさい」というお達しのメールが届きましたのでまとめてみます。
いやまあ何というか、アレはようするに
「自分探しでドン詰まりになるくらいなら他人探しをしてみませんか」
という話だったわけで……って30字で片づいちゃったYO! しかもえらく陳腐だし。
どっちにしろ笑えないのは勘弁してけれよ。
「金色のガッシュ!!」第15巻
「シグルイ」第1巻
「メカざわくん」
「美鳥の日々」第1巻〜第5巻
以下、簡単な感想など。
追記:
でもネタの安定性が高すぎて4巻あたりから早々とマンネリの兆候が……
もうそろそろ「我ここにあり」と声高にがなり立てるのにも飽いてきましたので、ここらで一歩進んで「汝そこにありや」と問いかけてみたいところです。
己ひとりを世界全体と直結する唯我論にふけるのもたしかに素晴らしいあそびではあるのですが、どのみち具体的・実際的なレベルにおいて生活していく上で物理的他者の存在は嫌でも応でも前提となるわけで、目を閉じて耳をふさいで俺は俺は俺はと自我を内側へ収斂させてもしまいには煮詰まって脳髄が焦げついていくばかり。ある状況のある時期のある過程としては自我を主張することに貪欲となるのも必要とは思うものの、どうも最近身の周りの物語作品をざーっと眺めると、視野狭窄的な「ワタシ世界」ばかりが目立っているようで僕はいい加減お腹パンパンなのであります。
てなわけで、己の在ることを訴えるのはいっそ後回しにして、まず他者の扉をノックすることから始めてみるのも一つの手ではないかと思います。
「汝そこにありや?」と問うてみて、うまく応答性が手に入ればもうけもの。応じてくれたその人を起点にして自動的にみずからもそこに規定されます。
もちろんこっちが問いかけられた時にはそこへ応答を返さなくてはいけませんし、レスポンスを相互に維持していく責任(=しがらみ)も生じますから、各々がバラバラに人の話も聞かずただ「我ここにあり」と吠えたけるのに比べて繊細な配慮と調整が必要で、とてもしんどくめんどくさくはあります。それでも、外側に向けて良いラインを適度に確保しておくと、生存生活上で物理的にも精神的にもメリットの方が多いように思います。(僕個人の経験上の意見ですが)
一方で、目の前の「汝」に問いかけてもさっぱり応答がない場合や悪いつながりを掴んでしまう場合なども当然ながら想定しなくてはなりませんが、こちらはトライ&エラーを(致命傷を負わない範囲で)繰り返していくのが基本戦略になるでしょう。失敗だと思うラインを見極めて上手に「切って」お別れしてしまう度胸と判断能力を培っていけると望ましい……とはいえ、実際の人付き合いのうえではなかなか難しいところがあるので、こちらはまあ努力目標という程度で。
──と、ぐだぐだとまとまりのない戯言を述べてみましたが、本当はまだこれでも危険性が残ってるんですよね。
たとえば親子関係や色恋沙汰ではありがちなように、「我に応じる汝」の世界でも、単線的にきわめてしまうとこれまたやはり「世界に私と貴方だけいればいい!」みたいなイタタ……な閉鎖系になりかねません。このへん、近年のゲームやアニメその他の媒体が陥った罠として具体例に枚挙のいとまがないです。最終兵器な彼女を描いたアレとかアレとかアレとか。
ゆうべ放映されてた『マリア様がみてる』第11話「白き花びら」(と、その原作小説第3巻)はちょうどその問題に触れていて、「思い詰めた思春期レズのカップルは始末に負えん。せめてソフト百合のグループ交際にしときなさい」という教訓話になっておりました(^^;
というわけで、「我」から先へ進んで「汝」へ問いかけその応答を獲得したら、もういっちょ意識を拡張して「汝ら」「彼ら/彼女ら」から「我ら」まで行き着いて、そのうえで初めの「我」まで帰還することが最終的な理想なんじゃないかと思う次第です。
最初のところで足踏みしまくってダダをこねても、たいていの場合周囲のひとをイヤな気分にさせるだけがオチのような気がします。
すてられて-こごえている-こいぬ 【捨てられて凍えている子犬】
人間の秘められた優しさを表出させるシステム。
雨天を好む性質以外は詳しい生態が不明なため、通常の
生物学における食肉目イヌ科の哺乳類とは無関係という
説もある。
目撃例は1980年代前半をピークに、以降は減少中。
民明書房提供「大萌林 第二版」より
いくつかのSF作品がお伽噺に成り果てた瞬間──に、なるのかどうか?
太陽系10番目の惑星を確認 NASAが発表へ [CNN.co.jp]
さぁ小学生の皆さんごいっしょに。
水金地火木土天海冥セ!
注) 「セドナ」は仮称です。
ただ、セドナに関しては厳密な認識として「惑星」にはあたらないだろうという話もあります。
たとえば冥王星は惑星とするにはあまりにミニサイズで、「慣例上いちおう惑星とする」という程度でコンセンサスが落ち着いているんだそうですが、セドナはそれよりさらに小さいのです。
カリフォルニア工科大学の地質学・惑星学部門のサイトを見てみるとセドナ関連の情報が掲載されており、そこでは
> Is Sedna a planet?
> NO, at least not by our definition.
てな具合に、発見者のMichael E. Brown准教授がはっきり「惑星ではない」と断言してるんですよね。
監督・演出 ジョン・ウー
出演 ベン・アフレック
ユマ・サーマン
アーロン・エッカート
原作 P・K・ディック
公式サイト
[あらすじ]
企業が極秘にしたい研究開発に協力して、職務完了後に雇われていた期間の記憶を消すことで情報漏洩を防ぐという技術屋の裏商売が存在する近未来。腕利きのマイケルは、とてつもない多額の報酬と引き換えに、3年間に及ぶ記憶消去をともなう大がかりな仕事を引き受けた。
ところが彼が目覚めると、手に入るはずだった大金は自分自身が放棄したと告げられ、代わりにガラクタのような雑貨ばかりが詰まった封筒を手渡されてしまう。
やがていわれなき罪でFBIにつかまる羽目になったマイケルは、自分が手がけた仕事が恐ろしい陰謀に利用されつつある事に気づくのだった。
[review]
二丁拳銃の中の人ことジョン・ウー監督が、ディック先生の「報酬」を映画化した作品。
「トータル・リコール」から始まり「クローン」「マイノリティ・リポート」という系譜が出来上がっている記憶グチャグチャ系追いかけっこSFを、ヒッチコック・サスペンスの意匠を踏襲して仕上げてる……んですが、不思議なくらいにケレン味のケの字もありゃしないのがニントモカントモ。みょーに熱のこもらない「まともすぎる面白さ」で、ジョン・ウー監督ともあろう人が……というかそもそも何故ジョン・ウーなんでしょうかこれ。
しかし、芸風云々を抜きにして作品単体でいえば、一気に(プロットの細部破綻にこだわらず)駆け抜けるのが心地よい娯楽映画になっています。
手元にあるアイテムが次々と危機脱出に役立っていくシーンはまるでアドベンチャーゲームのようでとても爽快。ご都合主義が理由のある現象として物語の駆動力に組み込まれており、なかなか興味深いです。
うう……っ
いや、わかるんだ……っっ
単なるキャラ萌えに堕しないように努めた懸命さや生真面目さはひしひしと伝わっては来るんだ……っっ
しかし、しかし……っっ
あかんがな、これ。
・「400年前からのお家再興うんぬん」の設定
→序盤でヒロイン達との同居というセッティングが済んだとたん形骸化
・公式の売り文句は「明るく楽しい恋愛アドベンチャー」
→重く辛気くさい「家庭の事情」ドラマ一本槍
・「ゲームを攻略する」ためにプレイヤーが視点を仮託する主人公なのに……
→モラトリアムたらたらの学生には何の実質的な達成力もないことをこれでもかこれでもかと強調(問題解決は基本的に偶然頼りか両親や対立相手のお情けによる)
・18禁ソフトとしての意義
→極薄。
とまあ、どうしても「力の入れどころをことごとく間違っている」という釈然としない感覚が拭えないため、プレイ中に感情が沸騰しきれませんでした。嗚呼……。
つーか、たぶん一番引っかかってるのは吾妻はじめのシナリオなんだろうなぁ。書き手に「人体はある程度以上の損傷を受けると不可逆的に破壊される」という認識が欠如してるところがどうしても肌に合わないのです。
(注: なんか散々言ってますが、これはあくまでも僕の個人的基準によるものです。プレイする人によっては上であげつらった点がむしろ高評価の理由になりうる事はまったく否定しません。システム面もビジュアルアーツ謹製の安全牌で快適そのものですし、お話の好き嫌いをのぞけば平均水準はゆうに越えているクオリティだと思います。
アニメを視聴するだけの予定だった「マリア様がみてる」ですが、思うところあって原作小説にもあたっておくことにしました。まあ要するに「アニメ版トバしすぎー!」っつう消化不良ゆえだったり。
いま手元には第15巻「レディ、GO!」までチェックできる状態になっており、さきごろ第3巻「いばらの森」を読了したところです。
うーむ。
とりあえず内容的には「はぁ、つまり『魁!!男塾』の少女世界バージョンなのかな」という類推的な視点から楽しんでおります。白薔薇さまが大豪号院邪鬼な。
とはいえ、もともと作品自体より「こういう作品が多数の男性オタク層に支持されている」という現象面のほうに興味があるんで、あまり熱のある感想は出てこないんですけども(^^;
ネット上の書評をきっかけに火がついたこのブーム、まっさきに頭に浮かぶ思いとしては、リアルでは口に出しづらい男性の少女向け媒体への興趣が、同じくネット上のテキストサイトという仮面性の高いフィールドで抑制が外れて連鎖発火した結果ブームに……とかなんとかいうあたりを考えるんですが、どうにも紋切り型の分析のような気がして保留。
それよりはいっそ、ごく単純にかつての「セラムン」ブームの系譜にある現象だと位置づけてしまった方がスマートかもしれません。本来想定される射程の外にあった年齢・性別の読者層がカップリング妄想で喰いついてくるという構造を見れば、「C翼」ブームや「☆矢」ブームと同じ流れが少女向け作品の男性支持系で行われているだけなわけですから。
何にせよ腐女子オタクの諸氏からすれば、「マリみてハァハァな男オタの今いる場所はすでに80年代に通過しているッッ!!」というところなんでしょうな。
今だとワンピースとかテニスの王子様か?(^^;
レンタルしていたDVDを返却しに駅前のビデオ屋さんを訪れた僕の目の前をひとりの年若いお坊さんが通り過ぎたかと思いきやその場に停めてあったアホみたいに高級そうなBMWに乗り込んで颯爽と走り去っていきやがりました。なんだか裏切られた気分です。
作家の個人的なオブセッションを何か時代や社会の一般全体に蔓延する問題であるかのように拡大してしまう(そして受け手の側でもそれを承認してヘコんでしまう)ところが、そもそもの間違いなんじゃないかと。
「広く共感を呼び、社会現象となった」と評されるタイトルは、すべて本当にその時代を写す鏡なのか? じつは作家個人が掘った落とし穴への狡猾な誘導灯でしかないものが混じっているのではないか?
……てなわけで、具体名は挙げませんが、かつて深いダメージを受けた煮詰まりドロドロ系の某作品を振り返ってみてようやく「そりゃ"あんたの"生活における"あんたの"苦悩だ」と作者の思想にツッコめるところまで立ち直った自分に気づいた月曜日の朝でした。
追記:
これは回り回って僕自身にも跳ね返ってくる事なんですよね。
僕が日々何を考え、この日記でどんなことを語ろうとも、それはあくまでも僕の手と耳目が届く範囲をもとに世界を類推した記述であり、ちまたに無数散在する色々な考え方のひとつに過ぎません。
世界は人と時と場合によってとても美しく、またとても醜く、理路整然としていて、それでいて狂気的で、友愛を含み、けれど敵意をはらみ、闘争に満ち、かつ平穏です。
それをわきまえて、できるだけ己の想念をひとつところに縛らずフットワークを軽くしていたいなあと思う今日この頃なのでした。どっとはらい。
テレ東にて放映中の「十兵衛ちゃん2 シベリア柳生の逆襲」で、竹内力がゲスト声優として参加したことを知り、血尿を垂れ流すほどの悔しさを覚える。
前作未見のうえに今回は放映圏外だということでチェックを怠っていたもんだから、全然気づきませんでした。
しかしこれ、企画のキャスティング度胸を褒めるべきか、いかなる仕事にも全力投球な力アニキの度量の大きさに敬服すべきか。両方だな。
[参考]
竹内 力 公式サイト
近所のヴァージンシネマズがTOHOシネマズに看板替えしてた。
でも中身は同じなのね。
イノセンス
2004年、日本 99分
監督・脚本 押井守
キャラクターデザイン 沖浦啓之
プロダクションデザイン 種田陽平
音楽 川井憲次
制作 プロダクションI.G
原作 士郎正宗
公式サイト
[review]
ごぞんじ『攻殻機動隊』を受けた直接の続編にあたるアニメ映画。
高濃度に有意味なビジュアルイメージの構築ではおそらくここ数年の邦画で最高峰にたどりついちゃったオバケ作品である。客におもねることなく「お前らがこっちの知的水準に合わせろや」という押井節満載の作劇はいっそすがすがしいと思う。
しかしアレだ、文章媒体でゆっくり読んで咀嚼していくなら滋味あふれるであろうダイアローグも、音声として矢継ぎ早にたたみかけられると含蓄が浸透せずにただ観客を眩惑する呪文のような効果を発揮するのが恐ろしいといえば恐ろしい。まるで学生闘争の士の演説みたいな能書きの多さに辟易するか、あるいは寛容に大意だけくみ取って聞き流していけるかは、それこそ観客側の趣味にゆだねられるところだろう。
個人的感想としては、めくるめく引用によるペダンチックきわまりない体裁に付き合って「ベルメールの球体関節人形がどうこう」とか「サイバネティックな社会状況での実存哲学がうんぬん」なんて訳知り顔でテーマについて考察するよりも、バトーのおっさんを主役に据えたことで醸成される古典的ハードボイルドの空気をただ楽しんだほうが吉という気がします。実質的にはえらくオーソドックスな刑事ドラマですよ、これ。
つーか、さんざん言辞を尽くして観客を煙にまいたあげく人間そっちのけで人形にシンパシーしまくったオチで話を締めくくる運びには「アタマ大丈夫かこのヒト」と押井さんの脳髄地獄を半ば本気で心配してしまったのですが、まあそれはいらんお世話ですか。
レジェンド・オブ・メキシコ/デスペラード

アメリカ、2003年、102分
監督・脚本・音楽 ロバート・ロドリゲス
出演 アントニオ・バンデラス
ジョニー・デップ
ウィレム・デフォー
ミッキー・ローク
ダニー・トレホ
配給 ソニー・ピクチャーズ・エンターテインメント
公式サイト
[review]
熱い砂塵吹きつけるメキシコの街で銃撃の名手である流しのギター弾きの戦いを描く「エル・マリアッチ」シリーズ最新作。前作から直結した続編ではなく、キャラの背景設定を微妙に変えたうえでの異編となっている。
監督はもちろんロバート・ロドリゲス。『スパイ・キッズ』もいろいろ面白かったけど、ロドリゲスつったらやっぱこれですわ。押井守とは真逆に、自分の趣味をお客のためのエンターテインメント方向へすり合わせる形で「オレ様ムービー」を極める映像スタイルは好感度たっぷり。
ただ、今回はかなり複雑に錯綜したプロットの中で主人公エル・マリアッチの行動がやや抑え気味になっているため、「ひたすらバンデラスの濃い顔を堪能したい」という人は肩すかしをくらうかもしれない。
しかし、その代わりを果たして思いっきり物語を引っかき回してくれるのがジョニー・デップ。このシリーズの売りである奇想あふれるガンプレイも、比重はデップ演じる悪徳FBI捜査官が一手に引き受けており、「レジェンド・オブ・メキシコ」はまさにデップによるデップのための映画になっていた。ゲスト出演程度でお茶を濁すのかと思ってたらビックリだよ。
てなわけで、義手とギターケースと幼い少年と落ちぶれたミッキー・ロークの素晴らしく間違った使い方を見たいなら、オススメの一本です。
去年からの噂がほぼ確定した、という形で。
劇場版?アニメ『AIR』についてアニメ監督・出崎統氏が言及 [情報元:楽画喜堂]
リンク先は出崎統さんの公式ファンサイト内の本人談を掲載するコーナー。3月4日現在で、絵コンテの段階らしいですね。
劇場版という話もありますが、ソースが見つからなかったんで一応クエスチョン付き。
……噂では監督が原作をプレイしてないとかなんとか(ごにょごにょ)
それにしても、支持者の大半を占める層は原作ゲームを知り尽くし語り尽くしているわけで、既にネタが割れて物語のサプライズが完全に失われている素材をどこまでエモーショナルな作品に仕上げられるのか? 興味あります。
つーか、出崎監督の名物「ほとばしる止め絵」が炸裂するであろうことにワクワクドキドキなんですが。.
追記:
で、2ちゃんねるのLeaf・key板は当然のように過負荷でread.cgi停止状態(^^;
ひさびさに、HDDの底で眠っていた「エイジ・オブ・エンパイアII」を引っ張り出して遊んでいたところ、敵軍CPUにケチョンケチョンの敗北を喫してしまいました。
その時、ふと「そういえば俺って戦争のテクニカルな面については無知蒙昧もいいところだよなぁ」という今さらながらの事実を痛感。周囲にはその方面に詳しいお知り合い・お友だちがわりと多いんですが、今に至るまで僕自身の知識はさっぱりなのであります。ランチェスターの法則とか云われても「ビジネス理論の話かにゃ?」くらいの認識しかなかったんですよ(^^; トホホ。
てなわけで、とりあえず当面は
「ストラテジー系のゲームで、論理立てた方針を持てる程度には基礎を勉強しよう」
という目標を掲げ、ネット上で役立ちそうな情報をあれこれ漁ることにしました。
ちなみに現在、参考にしているのは以下のサイトなど。
AAJ戦闘技術研究室 [ALL ABOUT JAPAN]
まさに今回の目的そのままに沿ったコンテンツがまとまってました。
あくまでも「ゲームをする上で」という前提付きの落ち着いた語り口が良いですね。
戦史研究
科学的に戦史を研究するペ−ジだそうです。方程式がわらわら出てきます。
シェリーフェン伯爵たん萌え。(違います)
みりたりー研究所
航空・艦船に関するデータベースサイト。
ミリタリー版「悪魔の辞典」みたいな笑用語資料室というコーナーが楽しい。
長らく懸案だった身内のトラブルが、考えられるかぎり最善の形で一段落ついて家族ともども胸をなで下ろす。
まったくこの件では、テレビや映画のドラマが実際の法的作業において要求される煩瑣なプロセスをいかに上手く省略しているかということを実感させられました。いやはや。
……それにしても、弁護士ってほんと商売意識がきっちりしてるのなー。
だからこそプロなんだけど。
3タイトル同時進行でゲームプレイ中。
どれもそれぞれ違った意味で興味深いです。
詳しいレビューを書くかどうかは未定ですが、とりあえず現時点での感触だけ以下に述べておきます。
「放課後 〜濡れた制服〜」
嫌われ者の変態教師が学園内を練り歩いて女生徒を毒牙にかけていくという、BISHOPおなじみのフォーマット。芸風の安定(固定?)という意味では、そろそろトラヴュランスの域に近づきつつあるかも。でも古式ゆかしい陵辱系エロとして求められるポイントはきちんとおさえているので、むしろ好印象です。
「大好きな先生にHなおねだりしちゃうおませなボクの/私のぷにぷに」
「純愛Girl」および前作「恋する妹は〜」によって、いわゆるロリショタ系キャラの口火を切ることになったCAGEの最新作。
劇中のオトコの子の立ち位置が既存のヤオイ、ボーイズラブ、ホモなどのそれではなく、あくまで女性的アイデンティティーを抱えていながら身体がたまたま男性体だという、性同一性障害的な定義付けをしているところが面白いです。一言で表現するなら、「ヒロインにちんちんがついてるだけ」なんですね。存在の主軸は少女としてのもので、生物学上の性別は下位属性でしかない。うーん、新時代の到来だ(笑)
こういうアプローチを真正面からガチでやったらお客さんがつかない可能性もありましたが、CAGEは用心深く冗談っぽさで雰囲気を希釈して、とっつきやすさを演出しています。
実はすごく商売上手なメーカーだと見なせるかも。
「そらをみあげて想うこと」
舞台は近未来。地球の衛星軌道上に現れた謎の物体「キューブ」の影響で超能力者が現れ始めた世界。学園を兼任する研究施設で暮らす能力者の少年少女たちが、学生生活を送る中で「キューブ」の謎に迫る運命に導かれていく……というお話。
ライトノベル調のSF世界観が楽しい佳作です。たぶんインスパイア元は「2001年 宇宙の旅」とかストルガツキィの「願望機」とかファーマーの「我が内なる廃墟の断章」とか、そのあたりでしょう。僕はさほど詳しくないのでアレですが、SFマニアな人ならもっとニヤリと出来るツボが見いだせると思います。
画面効果を含めたビジュアル面全般にやや問題があるような気もしますが、サクサクと先に進める物語のエンタテインメントがそれを上回って作品全体を救っています。……でも、この娯楽性ってエロゲーとしての価値から生じる物じゃないんだよなぁ(^^;
ちなみにBLACKLIGHTは「ローデビル!」を出したメーカーさんだと言えば、分かるヒトには分かるかと。
追記:
超能力者のアイディアは思いっきりジョジョでした。
しかしうまいこと翻案してるなぁ。
受容する側に求められるであろう一つの反省について。
近年、エロゲーに限らず、アニメにしてもノベルにしても、「痛い展開」を「リアル」とすり替えて賛美する危険性がそろそろ意識されて然るべきかも、という思いを日々深めつつあるこのごろです。
たとえば、恋愛なり友情なり諸々の人間関係の物語的体現において、ある事象についてある側面だけを強調するという点では、ベタベタした「甘さ」もドロドロした「痛さ」もベクトルが違うだけで実はやってることは同じ「その為の」ストーリー構築であり、同じご都合的なフィクション快楽の供給/需要だったりするわけです。
むしろ、はなからお伽噺の性質を笑って済ますことの出来る「甘さ」よりも、よりリアルとの混同を誘発しやすいという意味で、「痛み」の方がよほど目くらましの度合いが高い場合があります。
「ホワイトアルバム」の痛みはリアルであるか?
「君が望む永遠」の痛みはリアルであるか?
「家族計画」は?
「天使のいない12月」は?
「同窓会」は?
痛ければリアルなのか?
苦ければリアルなのか?
「現実には厳しさがある」という事実確認を、いつの間にか「現実を厳しさによって規定すべし」というお題目に差し替えていないか?
一度、そこのところを問い直してもいい頃ではないでしょうか。
もちろん上に挙げたタイトルが名作、傑作、人気作、良作、感動作であるという巷の評価に異論を差し挟むつもりはありません。
ただ、「甘ったるいだけのお話にはない痛みがある=だからリアルだ=素晴らしい」と手放しで等式を形成してしまうのは、けっこう思考停止的な受容スタンスかもしれない、と思うのです。
問題は「それで何かマズいことがあるのか?」ということなんですが、我々はもともと生きていく上での消費物として様々な物語を自由に渡り歩いていけるところを、逆に(自分がリアルだと信じる)物語に支配されて、生き方や考え方の幅を制限される危険があります。もうちょっと具体的な比喩で言えば、特定宗教への信仰心が行き過ぎた場合を思い浮かべてみると分かり良いかもしれません。
それは最終的には「自分の信じる物語(の痛み)以外のリアリティを軽んじる」という排他性へつながるリスクを生みます。「●●●に描かれているような痛みがないから、その物語は非現実的でくだらない」と他を断じる態度は根本的に倒錯しているのに、それを自覚できなくなるかもしれない。そんなリスクがあるのです。
少なくとも社会生活を最低必要なぶんだけ円滑に行っていくためには、それはちとマイナスが大きいのではないかと思われます。
と、いうわけで。
物語の「痛み」に耽溺して魂を束縛されることなく、フィクションはフィクションとして楽しんでいく余裕を維持していたいものだなぁという自省および目標を掲げて、本日のたわごとはおしまい。
どうもお目汚しでした。