■情報量
・雑誌にはアオリやハシラ、次回予告などがある、単行本には(基本的には)無い。アオリが芸にまで昇華されているケースでの、その有無は大きな体験の差をもたらす。
・単行本にはオビ文章や表紙絵など、その作品のためのパッケージがある、雑誌にはない。
・単行本には作者のコメンタリーや設定情報などがついてくることがしばしばある、雑誌ではそれが少ない。たとえば映画館で観る生のままの映画とDVDで特典込みで観る映画の違いを考えよ。
・絵やテキストの修正が入った場合、修正前を雑誌で読むのと修正後を単行本で読む体験の違いが生じる。乳首があるとかないとかな!!
・同じ雑誌に載っている他作品との関わり合いの機微(「その号に載っている回の面白さ」同士の比較、パロディの鮮度、ネタかぶり、暗黙下での作者の交流の反映など)が感じられる雑誌、その機微から切り離されて作品そのものに没入する単行本
・文脈の把握しやすさの差。雑誌での読みは、読み返しをあまりしない読み捨てスタイルを前提とした場合、記憶が薄れやすい。そのため、その回その回での盛り上がりだけでも納得しやすい。話の前後のつながりの合理性については、全体の文脈をまとめて把握できる単行本での読みのほうがより厳しく判断されやすい。
・人々の評価による先入観の有無。雑誌では人々から評価を受けていないまっさらな状態でエピソードを読むことになるが、単行本では同じものが「雑誌掲載時にこういう反響があったエピソード」という成果を背負っている。
■時間
・雑誌は1話ごとに現実の時間が間に置かれ、最新の情報について吟味する猶予ができる。数分数秒を争うような盛り上がったシチュエーションでもいったん冷却期間、もしくは逆にもどかしい焦らしで妄想を焚き付ける燃焼期間が"強制的に"もうけられる。(さんざん続きがどうなるか妄想しまくって、次の話が実際に読めるころには燃えつきており、妄想してる間のほうが楽しかったということなどもある(^_^;;)
対して、単行本はある回と次の回が間をおかずに続くので、数分・数秒を争うようなシチュエーションを一気呵成に読んでしまえる。逆に言うと、自発的に手を止めないかぎりエピソード間で情報の入力を中断してじっくり考えるインターバルがない。
※補足:正確にいうと単行本と単行本の間では間が空くわけで、つまりある程度のひとまとまりで情報を縦断してから長いインターバルを取るという冬眠的なスパンを繰り返すことになる。ただし単行本は(雑誌よりは)読み返しの頻度が高いメディアなので、記憶の維持はより長く望める。
・時事性の違い。何か現実で起きたばかりのトピックを作品であつかう場合、雑誌に載ったとき「最新の話題」だったものが、単行本では二、三ヵ月遅れ(月刊連載では半年遅れとか一年遅れ)の「懐かしい話題」になることがある。
■メディアの形態
・雑誌のカラーページ→単行本でのモノクロ化による印象の違い
・雑誌と単行本の面積の違い。版型にもよるが、雑誌の大きなサイズと単行本のハンディなサイズでは、たとえば見開きのインパクトや、逆に小さなコマに織り込まれた情報から受ける印象が異なる。ストーリー漫画においては「コマの大きさ」とドラマ上の「意味の強度」は比例しやすいのだが(決めセリフ、決めゴマほど強調のため大きくなりやすい)、このときページ内比率で大きく描かれていても本そのものが物理的に小さい場合、いくらか刺激が和らぐ可能性がある。
・雑誌と単行本で使われる紙の色&インクの色の違い。雑誌が色つきの紙やインクを使っているとき、目がその色に影響を受ける。たとえば赤っぽい色の紙と、はっきり白黒になっている紙の場合では、絵から受ける体感温度やシャープ感は当然異なってくるだろう。また、雑誌では印刷のかすれがあるため、ページ全部ベタで塗りつぶされていても、単行本と比べてキツさが和らぐ。
・雑誌と単行本の紙質の違いは手触りや匂い(インクの匂い含む)の違いであり、印象や読むときのテンションに何らかの影響をおよぼしうる。
・雑誌と単行本の重量の違い。手にのってくる重さが、いわゆる"読みごたえ"に与える心理的影響は何かしらあると思われる。
・雑誌には掲載順がある。とりわけジャンプのようなシステムでは「やった!今週は前の方に載ってるぞ!」「またいつものように最後のほうだよ・・・とほほ」などの機微もまた、作品を嗜む際のひとつの情報であり体験となる。
・掲載順と重量の価値づけ上の結びつき。雑誌では前に載っている作品ほど、残りページの量によって持ち手(左手)に対して「重い」存在感を与え、後ろに載っている作品ほど「軽い」存在感を与える。それを作品そのものの扱われ方の軽重に結びつけるのは自然な感覚だろう。単行本は一冊全体で1タイトルなので、そうした不安や安心がない。
・掲載順で、雑誌を最初から順番に最後までぶっつづけで読むと想定した場合、はじめに載っているものほど熟読する気力体力が残っており、最後の方では多少なりの読み疲れが生じた状態で臨まなければいけなくなる。すると情報の吟味にある程度の影響がおよぶ可能性がある。短距離走を何本もこなすようなものだ。
単行本の場合でいえば、単行本のアタマに載っているエピソードと最後に載っているエピソードで集中力が異なることになりうる。
※補足:上では読み疲ればかりを強調してしまったが、逆に、いわゆる「エンジンがかかった」状態で右肩上がりに集中力が上がって最初から最後まで味わいつくすこともあるだろう。
・雑誌では掲載箇所によって単行本とは最終回のグランドフィナーレ感の違いが生じうる。単行本では多くの場合、最終回=本の物理的な終わり=本を読むという行為の終わりだが、雑誌では、たとえば「雑誌の巻頭に載っている最終回」はそれを読んでもその後ろに載っている作品を続けて読んでいく流れになっているため、感慨の質が異なる可能性がある。
■経済性
・雑誌派と単行本派ではタイトルあたりのお金の重みが主観的に異なってくる。(雑誌内のすべてのタイトルを読んでるとは限らないので単価はケースバイケースだが…)
・また、そのため金を出して買った場合、単行本を読むときと雑誌を読むときでは汚したり破いたりしてしまうことについての心構え;経済的な緊張感が違ってくる。たいていは単行本のほうがより気をつけるべき貴重品となる。
余談。
金銭の項目で気づきましたが、「単行本を買っている人」との対立軸にあたる雑誌派が「雑誌を買っている人」と「雑誌を立ち読みで済ませてる人」に分かれていて、これまた体験の質が違ってきそうですよね。(また、いつも買う人とたまに買う人でも分かれる)
立ち読みの是非はともかくとして、たとえば「コンビニの中だから人前で笑うのを我慢した」というのもひとつの体験になって、家でじっくり読んで心おきなく声を出して笑うのとは全く異なる思い出になるわけで。
あ、「本屋やコンビニに行って雑誌を買って帰る」と「単行本をAmazonで注文したのが届いた」でも違いますね。おなじ作品にアクセスするまでにも生活のシチュエーションの筋道がいろいろあるもんですわな。
けっきょくフィクションを味わうのは現実に身体をもって生きている僕たちで、その僕たちには各人の生活スタイルやその日ごとの体調や時間帯etc...のコンディションってもんがあって、それを抜きに「私はこの漫画を読みました」「私も同じ漫画を読みました」と会話したら深刻な齟齬が生じるわけなんですが、ネット上で作品のことだけに専して述べるレビューや感想に漬かってると(また自分でもそういうレビューや感想ばかり出力していると)本当に自分や他人がその作品から何を感じたのかってのがお互い伝わりにくくなったりはしないかなあ、ということを仕事がたまってる状態で風邪引きつつ現実逃避気味に考える私でありましたよ午前2時。
ちうわけで今回は、その様々な私的体験のズレのなかで一番確認が簡単な「どの媒体で読んだか」の問題に絞って洗い出してみたのでした。
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スクールランブルはページ横の部分の文章も含めて作品って感じでしたね。
考えていたのが作者か担当編集者か分かりませんが。
あと、雑誌だとたまにカラーページがありますけど、あれコミックスだと白黒になりますよね。
で。雑誌で三色カラーっていうんですか?
あれがコミックスになったときは、作品によっては、それをそのまま白黒のコミックスに落とすから、なんか微妙な印刷になったコミックスを見た記憶があります。
逆に、そこが修正されている作品もあったりして。
下書きをコピーして、コミックスにはそのコピーを使ってるとか。
あと、コミックスで作品を追っている人を意識して、ねぎまの赤松先生は、十話ぐらいで話を区切るとか。
あと、雑誌で読まずにコミックスを楽しみに待っていると、雑誌が休刊になったときに、雑誌には掲載されたけど、コミックスにまとめるには足りない話を永遠に見れなくなる。もしくは数年待たされるという、アルプス伝説現象がおきたりしますね。
>スクールランブル
そう、あれってコミック第1巻は初版でハシラ文が無くって、第二版からはちゃんとついてるんですよね。
ハシラ含めての体験が肝心な作品だというのを出版サイドが後から認識したんだろうなと。