たとえば、ある日ある男がパチンコを打ちに行って開店早々のお座り一発で大当たりを引き当てたとします。
それだけ書くと、ぱっと見で驚くべきことのように思えてしまいますが、もしも
「機種が確率1/100の甘デジで、その日までの丸一年間、同じ台を一日たりとも休まず開店から閉店まで終日およそ3000回転まわしていたのにずーーっと外れ続けていて、その果てにようやく当たりを引いた」
という背景が明かされれば、当たった事は当然となり、むしろそこまで外れ続けたことのほうが確率上の奇跡として驚くべきドラマになります。
例えを換えれば、
「ガラスで指先をちょっと切った」
「頭上から降り注ぐ大量のガラスの破片シャワーの中をゆっくり無傷で歩き抜けて最後にちょっと指先を切っただけで済んだ」
この違いですね。
両者はまったく同じ事実を記述していますが、我々に与えられる情報の脈絡によって意味合いはまったく変わってきます。
つまり、目先の場面に対するフレームスケールとして全体の文脈がどの規模・どの深さまで明かされているか(または、観測者としての我々がどこまで探りあてることが出来るか)によって驚きの焦点は揺れ動くという次第です。
それは自然界にあふれる信じがたいようにも思える造作や、優れた芸術表現と出くわしたときにどのようなレベルでの驚異を感じるかということについても同様のことがいえます。
果たして科学による分析は自然の神秘を損なうか?
評論による分析は美術の威厳を地に引きずり下ろすか?
ある意味では然り、しかしおそらく根本的には否でしょう。損なわれるものがあるとすればそれは目先の妄信であり、我々は別のレイヤーへ移った先で、やはりそこに立つことでみえる神秘や畏れを感じるようになるのだと思います。
また、作り手側からすると、ある時点でキャラクターやドラマの状況の文脈の何をどこまで消費者に明かすかという匙加減は、お話のスマートさに関わる重大事なんですよね。分かりやすいところでは、ミステリやサスペンスなどで「あの時こうだと思ったものが実はこういう意味だった」「あれとこれとそれは実はみんな深い関係がある出来事だった」みたいに裏が明かされる展開をいかに衝撃的に描けるかという手際に直結してくる話ですし、また、メディアを問わず物語の制作途中で、ある一節を作者判断でまるまる削ったり逆に前後を付け加えたりすることがよくありますが、これも大変難しい作業で、永遠に課題になるところです。
とりわけ週刊連載の少年漫画とかだと、あらゆる細部にいたる全てを最初から決め打ちではやっていられませんので、シリーズが続いていくうちに「後から作品の中に"最初からあったものとしての文脈"が作者によって発見される」なんて場合が多々あって、注意してみておくと大変おもしろいです。つまり「あ、ここまで描いてきて気づいたけど、このキャラってずっとこういう生き方考え方を背景(=文脈)にして今までああいう言動をしてきたんだな」と作者が気づくことって結構あるらしいんですね。ゼロベースで思いつくというより、本当に「発見」するという感覚で。
んでもって、まあ、そういうもんですから、うっかり作者が前もって文脈の幅をしばっておいてしまうと、あとになってツェペリさんに子供がおったのかおらんかったのか問題みたいな歴史摩擦(笑)が生じることもあると。
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なるほど。その理論を応用すれば、高校入学、あるいは、ある日を境に突然女性にモテまくるギャルゲーの主人公の異常さも、逆に、それまでに、そのモテまくる異常さをはるかに凌ぐ規模の異常な事態が主人公、ないしは周囲のヒロインにあり、男女交際に対して無縁であった、という考察が成り立つわけですね。
例えば、ヒロイン全員が過去、男であった。
ないしは、主人公が過去、死刑囚として服役していた。
はたまた、…いや、どう説明しても、あの急激なモテ度アップはおかしいよ!
僕たちが主人公を主人公として観測するようになった瞬間(物語のスタート時点)から格が上がる宇宙の法則があるんですよ、きっと。
この場合はユーザーの観測も含めて主人公の背負う文脈ってことで。