僕は焼きそばパンまるごとについて「焼きそばパンが好き」と言うことが出来ます。
あるいは材料のレベルで分析して「焼きそばパンの焼きそば部分が好き」「焼きそばパンのパンの部分が好き」「焼きそばパンの焼きそばに載っている紅ショウガが好き」と言うことも出来ます。「焼きそばパンの」という全体を忘れていない限りにおいては、どれだけ要素に還元しても僕は僕と焼きそばパンの関係を成り立たせることができます。
けれど「焼きそばパン」という全体から切り離して、ただ単に「焼きそばが好き」「パンが好き」「紅ショウガが好き」と個別の要素だけが先走るならば、僕は焼きそばパンと結んでいた関係を失い、遠くへ離れてしまいます。
<愛する>という動詞が、じつは個人の内面に渦巻く感情の問題ではなく、あるものと自分がまるごと関係しようとする態度のうちに生じる現象だとすれば、僕は焼きそばパンのどこが好きなのかと尋ねられたときに、あの子供っぽいけれど真実の答え、「えーとねぇ、全部好き!」を返さなくてはいけません。
さらにいうと、その関係においては対象をはじめからまるごと捉えるので、「じゃあ焼きそばだけ抜いたらどう思うのだ」という質問は成り立ちません。それは「焼きそばパンの、焼きそばが抜けている状態」になるだけであってやはり同じようにまるごとの焼きそばパンという存在が前提として僕と関わっているからです。
もちろんこれは例え話であって、焼きそばパンは貴方にとっての変数xです。
xは身近な親しい人でもいいですし、好きな芸術品や、あこがれのアーティスト、お気に入りの風景、傾倒している作品やキャラクター、なんにでもあてはまるでしょう。