すくなくとも人間が関わりあいをもつかぎり、「行為」というのはただ単体の現象としてあるのではなく、広い状況のなかの文脈による意味づけが大事な問題になってきます。
たとえばおんにゃのこのスカートは
・めくる
・めくらせる
・めくれる
・めくられる
と、大ざっぱに分けて4種類の現象可能性を含んでいますが、起きていることだけでいえばどれも「ある生き物の下半身を覆う筒状の衣服が末端から上方へ引き上がって脚部および股間部までが露出する」という図です。
しかし、勿論われわれは、上の4つをどれも同じ意味では受け取りませんし、当のおんにゃのこに生じる心持ちについても微妙に種類や度合いが違ってきます。それは各々のパターンでは当然シチュエーションが違ったものであり、主体のありかも異なっている──つまり行為されたことの責任を誰が引き受けるかが違うためです。
・(本人が積極的に)めくる
・(他人が指示して本人に)めくらせる
・(意図せずに)めくれる
・(他人によって直に)めくられる
スカートを「めくる」と「めくられる」ではめくり手が違うので性質を異にするのは当然ですね。では「めくる」「めくらせる」の差は? 両者は外面上はまったく同じ行動です。しかし、同じでありながらも、自分/他人の意志を行動に反映させるという構造においてまったく対照的であり、その判定には社会的な解釈を必要とします。
そしてそれは、人間の内面を目先のおこないだけで決めつけてはいけないというシンプルな道理に僕たちを導く根拠でもあるのです。
きっとこの広い世界では今日もどこかの街中で「おいおいこの娘、人前でスカートめくってパンツみせてるぜ」となじれらている少女が沢山いるはずですが、僕たちは彼女の行動が果たしてどこに主体を据えられたものなのか、ただぱっと見ただけでは分かりません。露出癖による自主的な淫乱パフォーマーなのか、それとも脅迫されて淫らなミッションを強要されている清純なお嬢さまなのか……みきわめずに嘲笑うのは、その子を人間としてとらえず、ただ現象としてそこに在るだけのものとして扱うことであり、ひじょーに冷淡な関わり合い方なのです。
人間を人間として把握し関わるためには、それなりに深入りしなくてはいけないということですね。
余談。
おそらく、イラストか何か絵を描くときに、同じパンチラ絵でも上の4種類のどの構図なのか明確に意識しながら描くと、見る人に対する最終的な印象は違ってくると思います。
KAZUHA ROOMの「今日の一枚」コーナーはそのへんのコントロールが秀逸で、いつも感銘を受けます。
そして、逆にいえば、ここで取り上げた問題は創作者が人間描写において隠し球を使えるというオプションの話でもありましょう。
物語作品で、ある人のひとつの行動についての最初の評価や意味が、前後の事情が明らかになったとたん180度ひっくり返るというドラマはよく使われる手です。ミステリなどはそのへんを極めたジャンルですね。
また、「美味しんぼ」の海原雄山や「北斗の拳」のシンやラオウのように、長編化にともなう後付けで、シリーズ後半になって逆算的に初期の行動解釈がひっくり返るケースも時々見受けられます。
スカート捲りの経験は
Posted by: 顕谷 忠志: 2008年11月11日 12:06あれば俺の人生も少しは違ったものになっていたかもしれません