飛影はそんなこと言わない
といえばこのエロビデオで有名(?)なフレーズですが、ただネタにして一笑にふすだけではちょいともったいないお題を含んだ言葉なので、一考してここにメモを記しておきます。
まず、あるキャラクターのふるまいが作品のなかで描かれたとき、物理的事実として描かれた場合には、それはわれわれに「記憶」として共有されます。
あえて「記憶」というのは、一般人の一般的な娯楽のスタイルとして、僕たちはある作品を初めて嗜むときに、映像や音声やテキストのあらゆるところを残さずデータとして脳みそにコピーして保存する(記録する)わけではないからです。その日の体調とか感性のコンディション、作品への思い入れによっては、よく覚えるところもあれば記憶から抜けてしまうところも生じるでしょう。
ただし、作品の現物が実体としてあるわけですから、すくなくとも劇中において「●●はそういうことをした/言った」という段階までは、具体的に確かめることができます。たとえ同じ作品について語り合うなかで齟齬が出ても、
「●●は〜って言ったよね」
「いや、そんなこと言ってないよ」
「じゃあここに本をもってきたから確かめてみよう」
「あ、ごめん。言ってたね」
これで問題は解決です。
つまり作品やキャラに関する「記憶」は、一次資料によって万人が正誤をあらためることができるということですね。
当たり前の話ですが、これがないと先に進めないのでおさえておきます。
で、次です。
作品そのものにべったり由来する「記憶」が積み重なっていくうち、消費者の内面で「記憶に由来するイメージ」というものが勝手に出来上がっていきます。
「●●はそういうことをした、こういうことをした、ああいうこともした」
→「それは、そういうやつだからだ」
俗にいう、キャラクターが立つ瞬間です。
キャラクターが特定の言動パターンをもっていることがわれわれにはっきりと学習され、それが好まれたり憎まれたりする段階です。
劇中である程度以上の行動描写が積み重なって、それらがわれわれに記憶されると、われわれには、だんだんキャラの言動の基準だろうと思われる性格が見えた気になってきます。
「こいつはこういうことをするであろう/言うであろう」という、そのイメージの集まりを、われわれは「印象」と呼びます。
この「印象」の段階で、作品は単に描かれた事実の総体というだけのものではなくなり、それを記憶した消費者個人個人による「解釈」「意味の読みとり」という作業の対象となっていきます。
作品に描かれたものから受け取ったイメージをまとめて、今度はそれを逆に作品の読み方に照り返すわけですね。
これは、ものごとを学習して、きわめて高度な先読み・裏読みによって生存上の有利を得てきた人間という生物の特性が自然に発露している段階なんですが、なにぶん個人個人の内側にあるイメージですから、見解の相違というものが生じてきます。
「●●が〜って言ったのはこういう理由だ、こいつはそういうやつなんだ」
「いや、●●はそんなやつじゃない、こういう理由だからだろう」
この場合は、一次資料を示すだけでは議論はおさまりません。
一次資料を叩き台にして、抽象の段階を一段階上がる(描かれた物理的事実の背景にあるものを想像する)ことばのやりとりですから、究極的な「正解」はない。ありうるのは、より信頼性の高い解釈だとおたがいに同意できる落とし所をもうけることですね。説得力のせめぎあいになってきます。
作者に見解を聞いてみたところで、作品が公的に発表された以上、それ以降のコメントは"作者という個人の解釈"の表明であって、それが「正しい」というのとはちょっと違います。
で、最後の段階です。
「●●は、こういうやつだ。だから、こういうことをするであろう」
「いいや違うね、(俺の考える)●●はそんなことはしない!」
噛み合いませんね(^^;;
先の「●●がこういうことをした」という「記憶」の累積→「なぜなら、●●がこういうやつだから」という「印象」の発生は、まだそれでも一次資料をどう処理するかという次元で現物取引をしていたわけですが、人間の想像力というやつはたいしたもので(笑)、発生した印象をさらにどんどん自分の内側で醸成させていくことで、最終的には「そして、こういうことをするのが●●なのだ」という段階に入ることがあります。
そこまでくるともう原典キャラそのものとは次元を隔てた、消費者の中にあるもうひとつのキャラが誕生することになります。
なまじ元が同じで同じ名前だから混乱するんですが、実質的にラベルを貼れば、
「俺がキャラAの印象を元に構築したキャラB」
「僕がキャラAの印象を元に構築したキャラC」
「私がキャラAの印象を元に構築したキャラD」
・
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・
というようなものです。そりゃ違って当然だよね、と(^^;;
これを例えて、一次資料を物理的な場所だとすれば、その構築されたキャラは、現実の場所について一人一人が手元で書いた地図のようなものだといえるでしょう。
現地に対して、記憶と印象にもとづいた地図を書く。
ただし現地をもとに書いたものではあっても、地図は現地そのものではない
*1
というのが最大のポイントです。
地図では省略されているモノが現地にあったりします。あるいは現地に足りない情報を地図で補足してあることもあります。地図の書き方はひとつじゃなく、書き手によって様々な縮尺や項目がある。だからひとつの地図に書かれたことが現地のすべてとは限らない。
そして何より、現地に対して何か直接の物理的なフィードバックがあるわけでもありません。地図を破いたからって現地が崩壊するわけじゃない。
あくまでも、地図というものは僕たちが書いて、僕たちに働きかけるものであって、現地そのものとは相関関係にないのです。
これを具体的にいうと、二次創作の問題が分かりやすいですね。
すぐれた二次創作というのはすぐれた地図が描かれたようなものと言えます。単に現地にいるだけでは分からない面白い情報や斬新な見方が書かれてあって、現地に対する新しいイメージを示してくれる地図は、現地そのものの価値とはまた別種類の素晴らしい表現物だと思います。
また、たまに、現地のありさまをごくわずかにしか捉えず、ほとんどを別のもので書き補ったようなトンデモ地図もありますが、それでもやっぱり見て面白かったらそれなりの価値を感じるわけです(笑) 現地そのものではないので、書き方自体は自由なんですね(現地に迷惑をかけないような範囲で、と最低限望まれるマナーはありますが)。
プリキュアSSでいうと満がメロンパンをもらったシーンはあってもそれが大好物になったという描写まではないんですが、そういうことにしとくと面白いんでファンの中にはそのスジで妄想を楽しんでいる人たちがいます。
ちょっと古いところではエヴァの二次創作小説の畑でアスカがハンバーグを好物にしてたりシンジの料理が趣味を超えた技能になってたりするお約束も、(種になった描写や設定はあるんだけど)印象が肥大しまくった結果だったような。
さて、ここで冒頭の
「飛影はそんなこと言わない」
にたどりつくわけです。
ぼくたちがこのフレーズをぱっと見で「おかしい」と感じるのは、ようするに、「地図は現地そのものではない」ということを間違えているなぁというのが何となく感じられるからなんですね。「自分が書いた地図が現地そのものであり、他には何もない真実である」という主張の奇妙さ、その奇妙さを自覚していない滑稽さが、この一言が失笑を誘う原因になっています。
……なんですが、あんまり他人事の滑稽さだと笑ってもいられません。
程度の大小がちがうだけで、僕たちは存外にこの現地;地図の関係をしょっちゅう間違えやすいんですね。
作品やキャラをめぐる議論で、「俺の地図にはこう書いてある!」「バカ野郎、俺の地図にはこう書いてるんだよ!」と、着地点のない話がえんえん続いてしまうところをご覧になったり、じっさいに体験したりしたことがあるかたはけっこうおられると思います。
で、それを指摘したり自省するとっかかりとして「飛影はそんなこと言わない」はあまりにも便利な一言なんだろうな、と思う次第です。
おおもとのビデオの文脈では、この発言は男優が飛影に外見含めて全然似ていない、というくらいの意味だったもよう。すなわちこのフレーズをマニアの入れ込み過ぎのシンボルとして盛んに使用される状況自体、印象が現物から離れて膨れあがった一例として挙げられそうです。
これ以前で同じような使われ方をされたものだと、「美形はトイレに行かない」系がありますね。
また、ここで書いていることは日常現実に還元されていく問題でもあります。
家族や友達、好きな人やなんかについて自分なりに内面に書いた地図のとおりに相手がふるまってくれないと何か裏切られたような気分になります。実際は、それはただ現地の最新状況が変わったとか知らなかった場所が明らかになったということであって、そっと地図を更新すればいいだけなんですが、なかなか難しい。一度書いた地図には手を加えたくなくて、ともすれば現地を地図に合わせてしまおうという身勝手までやりたい気持ちが出てきます。そういう身勝手さと戦うのも、また人間の背負った業というやつなのかもしれません。僕は負けっぱなしですが(^^;;
資料的な事実関係の記憶は、共有し、現物を確認できる。
そこからイメージをとりまとめ、評価や解釈、推測をまじえた印象は、お互いに納得できる状態まですり合わせるか、冷静に棲み分けるしかない。
とまあ、いうは易し・おこなうは難しのことを、以上長々と書いてしまいました。