長かった文化祭編もそろそろ佳境をむかえつつある「魔法先生ネギま!」。
魔法(+SF)バトルのつるべうちや、人類社会と魔法使い社会がどーのこーのという大仰な話に発展している昨今、じつはタイトルの「魔法先生」の「先生」のほうもちゃんと機能しているというのは案外失念されがちなようです。
粉飾的なスケール操作を抜いて、超鈴音とのごたごたで骨格となる"実質的にやっていること"を抽出してみると、
・アタマの良い子が深刻な問題に答えを出しあぐねて過激な解決法に頼り、えらい事件を起こしてしまった。それが正しいかどうかは本人も分からない。
・教師が辞職覚悟で身を張って止めに行く。
・しかし教師もどう答えを出したものか悩んで躊躇してしまう。
・だが、クラスの教え子たちに励まされて「クラス一丸となって」問題にとりくむ
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・問題児と教師の対決。
超の物言いや、ネギを超のところへ後押しするムードがあくまで「説得できるか、できないか(是非を決めるだけの情理を示せるか否か)」という点に重心を置いたものであって、血生臭さを周到に回避してるのはじっさい読んでいれば分かるわけですが、そのへんはけっきょくのところネギまが「教師モノ(先生が主人公の学園モノ)」の性質を担保していることに由来するのであって、今の展開でさえもまだ、かならずしも狭義のバトル物としての刺激提供がメインになったわけではないと思うのです。
たとえば156話目で超がもらした一言、
「この場面において計画の可否を決めるは どうやら私ではなく……彼ネ」
言い方はかっこいいんだけど、「先生、どうすればいいと思いますか!? 私のやってることは間違ってますか!?」と尋ねたがっている子供のことばとして読むと、けっこう哀れをさそうセリフのようでもあります。
したがって、じつのところ今のネギ先生の精神的なドラマ状況は、学校の非を暴くために放送室を占拠した生徒だとか、若くして妊娠した生徒だとかに金八先生がどう向き合うかというのがドラマであったとの同じ次元にあると思う次第(笑)
で、ここで面白いのは、物理的にはネギが子供であるために、人生経験を根拠にした説得ができないというハンデがあること。そのハンデを超えてなおどういうふうに説得力(強引にでも納得させてしまえるエネルギー)を示すかが、見どころのひとつなんじゃないでしょうか。
まあ、以上はあくまで個人的な見解であって、何を主として読むか副として読むかなんて読者それぞれの自由なんですけどね(^^;; そーゆーふうにも読めるよね、くらいで。
ネギはまだ先生らしいと思うんですよ、他誌のとある先生方に比べたら。それはぎょらーべーとボボ八。
どちらも経験豊富すぎるオトナですが、ボボ八は教師として見ているのがナメ郎だけという有様。魚雷はまだ先生扱いしている者が数多くいますが、彼女を中心に展開されるのは「生徒達がいかにしてスパルタ教師を自分に都合がいいように動かして、ライバルを倒させて漁夫の利を得るか」という最悪の学園ドラマ。これってギャグ漫画というよりはまんま野島脚本の世界じゃ・・・。
というか野島脚本がギャグなんですよ!(な、なんだってー)
Posted by: みやも(管理人): 2006年11月19日 21:26