以下は、ものすごーく当たり前の話です。
……なんですが、僕ていどの人間だと、あたりまえのことでもことばにしておかないと分からないまんまになりそうなので私用にメモしておきます。
現在、多くのエンターテイメント系漫画においては、コマの面積=描かれる発言・行動の意味の強度である。
相対的に小さなコマで描かれた人物の言動のあとを受けてやってくる、より大きなコマで描かれた人物の言動は優位であり、前者を制圧する──物理的にやっつけるというだけではなく、印象的で説得力のある台詞で相手にハッとさせて場面(会話劇=ことばを介した感情のせめぎあい)の主導権を握るなど──という原則がある。
たとえば「ARIA」でもなんでもいいが、ウジウジ悩んでいる人物に誰かがズバっと光明を差し込むような印象的な台詞を演出する場面で、この原則は活用されている。台詞自体は実質的には全然たわいないものであっても、大きな面積で描かれると問答無用で「ああ、なんか説得力のあること言ってるんだな」と納得させられることがある。大きく描かれたモノの威力というのはなかなかあなどれないのだ。それを可能限界ぎりぎりいっぱいまで拡張していくと、いわゆる見開きをつかった表現にいきつくのだろう。
展開に決定打を与える決めゴマというのは、たった一言を吐くところをでも大きい面積をつかって描き、それが「強い」ことが示される。
たとえば、まったく同じ構図のコマの連続で、まったく同じ割合の台詞を一言ずつ吐いている二人がまったく同じテンションで交互に描かれていたとしても、面積をいじるだけで一方が優位に(逆に劣位にでも)立った瞬間を印象化することができるのがおもしろい。
これは、ごく単純な「大きいものは小さいものより強そうにみえる」印象価の原理であって、大きく描かれたことば/ふるまい/気持ちには強い意味がある(ように思わせる、思える)というだけのことではあるのだが、この原理の介入をディスプレイの単位で許容してくれるというのが、他のメディアにはあまりみられない、並存画面メディアとしての漫画の特徴といえる。
かつて原初的なコマ漫画では、画面を並べて話をつなぐというのは構造であり方法であった。それが、やがて並べる画面の面積を操作すればストーリーに意味のリズムを加味することができるという武器に進化したのであろう。
こういう面積の運用がいつごろから明確になったもので、またそれが自然の進化だったのかあるいは自覚的積極的に開拓した作家がいたかどうか。僕は寡聞にして知らないので、漫画史にくわしい識者に尋ねたいところである。
補足すると、ここで述べる「強い」というのは量的なものであって、必ずしも状況として「勝っている」場合とは限らない。愛する人間を殺された者が述べる呪詛のシーン、試合の勝者に向かって敗北者が血を吐くような悔しさを訴えるシーン、失恋させたキャラに失恋したほうのキャラが大きなコマで泣きごとを垂れるシーンなどを、時として"勝った"側を圧倒する形の大ゴマで描くのも、そのネガティブな事実を「強く」意味づけるための面積操作の一環である。
しかし、この「意味の強い大きなコマ」に依存しすぎて濫用すると、大コマばかりで間延びした、メリハリのない漫画になってしまうことになる。
週刊少年漫画の畑では、一部には独自の"見得切り"の伝統芸として擁護すべき領域もあるが、それを差し引いてもやはり意味(含み)をもたせようとしすぎて逆にスカスカになっている作品が散見される観がある。具体例は挙げないが。
応用。
コメディにおいては、こういう意味の強度をわざとずらすテクニックが多く用いられている。
意味ありげな言動を大きな面積で描いておいて、直後にあっさり何の意味もなかったことが明かされるとか、ものすごく大事で重いことを小さく小さく描いて違和感を醸し出すなどのやりくちで笑わせるのは、意味の摩擦を核とするギャグ漫画の常套手段である。
余談。アニメの話。
厳密には漫画原作のアニメ化作品についての話。
一般に、漫画→実写に比べて距離が近そうに考えられがちな漫画→アニメ化タイトルに際しても、その一見した近しさがかえっていくつかの困難を生んでいることも指摘されている。よくいわれるのはイマジナリーラインの要請がゆるい漫画から固いアニメへどう移すかという問題である。
そして、上で述べたコマ面積の相対的な比較が許される漫画と、単画面メディアであるアニメのギャップも大きな障碍となっている。ふつう一度に一図をつらねていく"紙芝居"的メディアで、画面分割や、前の画面と後の画面がサイズを変えるのは一般技法ではなく特殊技法になってしまう。通常では、いかに同じワクを続けたまま、キャラのふるまいの意味強度を原作漫画と同じに表現するか──もしくは切り捨ててまったく新しい解釈を入れるか。アニメ化作業というのは、この厚い壁へのチャレンジである。音やエフェクトの入れ方、カットのタイミングなどによる微妙な演出の折り込み手腕が問われ、それを踏み外すと、まったく忠実な運びであってもなんだか印象がぼやけたアニメ化になってしまうのである。どんなに枚数を費やしても、そこに込められる意味のピントがずれた映像化は見ていてつらいものがある。具体例は挙げないが。
余談。ゲームの話。
ADV系のギャルゲーやエロゲーは、あまりエフェクトにこらない限りはやっぱり1画面メディアなんですが、「通常画面」と「イベントCG」という情報量の差があるグラフィックの緩急によって、前後で発言や行動の意味の強度をコントロールできますね。(原則としてイベント絵の主体がみせるふるまいは、その直前の通常シーンのどのキャラより言動の意味が「強い」。もちろん主人公が強くなることもあればヒロインが強くなることもある)
上の方で述べた、「メリハリのない漫画」ってのはつまり「イベントCGばかりつなぎまくった状態が何時間も続いてありがたみが麻痺する」みたいな長編漫画のことです(^^;;
マンガにおいて 見開き2ページにおける、コマの大きさやコマの中における人物の大きさ、描きこみ具合 等々で、意味の力関係を表現できますが、アニメにおいては、時間、音で描き込み、ディフォルメ等々で表現が可能です。
マンガからアニメへのニュアンスの翻訳はそれほど難しいことではないです。
ただ、多くのアニメ製作者の方がそれに対しての意識が低いだけだと思います。
もちろん その翻訳を理解している製作者のメジャーどころのアニメ製作者もいますけどね。
Posted by: page: 2006年10月04日 02:50近年、アニメ業界は各レベルで人材不足と言われてるようですが、どうなんでしょうね……。たしかにトップクラスを見れば「やって出来ないことはない」とは思うんですが。
その一方で下をみてもまたきりがない(^^;;
4コマ漫画が漫画の基本と言った神様もいるくらいですから。
Posted by: 名無しさん: 2006年10月04日 10:14>4コマ漫画
枠を操作せずに固定した画面サイズのつらなりで起伏を見せるってのは、それはそれでかえっていろんな工夫が必要ですよね。
島本和彦氏は大ゴマでどうでもいいことを言わせて、ほんとうに言いたいことは小さいコマにボソッと書くとおっしゃってました。
理由はいいたいことを大ゴマで描くと押し付けがましいからだそうです。
島本先生はそこらへんのコントロールがめちゃくちゃ上手いですよね〜。
Posted by: みやも(管理人): 2006年10月05日 13:56