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初の長編小説。イラストは上連雀三平先生!
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    2006年09月22日

    「いるということにしておく」ということ

    [ note ]

     媒体を問わず、フィクションキャラクター全般に言えることですが。

     たとえばガチャピン。
     最近、彼の公式ブログが開設され、日々つづられるおもしろい日記でファンに親しまれています。そこではコメンター諸氏はみんな空気を読んでいるというか、"中の人"に言及するような野暮な人はいないみたいです。

     ガチャピンがポンキッキの番組内でおこなっている数々のチャレンジについては、「(実際には中の人たちが個別にすごいんだけど)"ガチャピンが"すごい」という前提でながめることで、ありとあらゆるスポーツに秀でたひとりの不思議なキャラクターが生起するようになっていて、それが楽しみの大部分を占めています。いろいろ理屈をつけることはできますが、これは究極的にはそういうことにしておいた方が面白いから、というのに尽きるでしょう。

     この、基底現実レベルでのうがった判断をいったんすえおいて、「そういうものがいるということにしておく」ことから心にエンジンをかけるというのは、人間がそなえた観念的な能力のなかでも特に強い部類に入ります。正しく用いられればけっこう有用なもので、場合によっては──宗教上の"キャラクター"がそうであるように──心の大きな支えや救い、行動の原動力になってくれるものです(もちろん悪く作用すれば度し難い火種にもなるんですけど、その問題は今回は割愛)。

     我々が映画なりノベルなり漫画なりゲームなり、ある作品について、またその中の登場人物について語り合う楽しみは、いちいち彼らが存在するしないを問いただすことから始めなくてはいけないわけではありません。ユーザーの認識批判を含みに入れない、純粋な作品論においては、まず「彼/彼女がいるということにしておいて、そこから何を語れるか」ということが肝心です。

     この「いるということにしておく」は現実へ強力にフィードバックされて、我々を行動にかりたてます。キャラクターにたむける葬儀や祝儀、またキャラクターの住居を我々に用意させるようなことまでが多々あります。かつて力石が死に、葬儀が執り行われた。ベーカー街にはホームズの家が作られ、ノルウェーにはサンタさんの家がある──そこに手紙を出せば返事も貰える。人々がそういうことにしていて、そこに喜びをこしらえているのです。
     もっと手近な範囲では、二次創作にも一部そうした面がありますよね。自分が応援していたAというキャラとBというキャラがくっついた時に「記念」と称して絵やテキストや同人誌を勢い任せに上げるという情熱も、"彼ら/彼女ら"がたしかに現前しているという前提から発するものであって、その実在に疑念を挟むところからは始まりません。

     そうして、フィクションキャラへ向けて起こすアクションは我々にとっては現実に行為した事実として心に残ります。「そういうことにしておく」という理性的な仮定はやがて本気の「そうであること」に昇華します。少なくとも、昇華する瞬間はあります。大人だってのめりこめば、キッズアニメの着ぐるみショーで本気の声援を送ることはできるんです。実際に声を上げる必要はないですが(笑)

     その意味に限れば、「現実と虚構をごっちゃにするな」というのは言っても詮無い非難です。まずごっちゃにすることから全てが始まるのですから、それをやめろというのは、心をまったく動かすなというのと同じです。非難するとすれば、ごっちゃにした結果で身を持ち崩すような生活をするな(それによって社会に迷惑をかけるな)という地に足のついた言い方にしないといけないでしょう。抽象的な良い悪いのレベルにおいて、リアルとフィクションを分けろというのは単なる横暴です。

     あと、ついでにいうと、フィクションの度合いが大きい、まったく世界がかけはなれたファンタジー舞台の作品であっても、たとえばそれが超古代だとか超未来だとか、往来可能なパラレルワールドだとか、我々の世界とのなにがしかの関連づけをもうけていることが多いのは、「彼らがいる/いた、ということにしておく」ためのチャンネルを担保しているという見方もできます。

     さて、ここで述べているのは、日々あたらしく生産される作品のキャラクター消費に限ったはなしではありません。
     たとえばリアルな歴史をさかのぼっていくと、根源で「〜ということにしておく」神話・伝承のキャラクター群にたどりつくのは、けっして我々が虚構によってむなしい現実を慰めているというのではなく、そういう前提をみんなで採用することで、さまざま豊かなアクションをいっしょに取れるということを意味しています。われわれが文化と呼んでいるものの大部分は、歴史的に「そういうことにしておく」設定の集積で成り立っています。(だから安易な現実判断で歴史の根っこを"合理的に"書き換えようとするのは、度が過ぎると文化亡廃につながるリスクもある)

     というわけで、フィクションのキャラクターを「いるということにしておく」ことで愛したり憎んだり楽しんだり、その気持ちにもとづいて語りや行動を起こすというのは、現実の代替物というより、それ自体がひとつの現実生活を生成していく作業だともいえるように思うのです。
     可愛いキャラを見つけて「●●は俺の嫁」と述べるときに、自分が本当に表明しようとしている意志は何なのか、いちど振り返ってみるのも面白いかもしれません。


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