ある一つの作品があって、門外漢が触れると強い感銘を受けるが、そのジャンルに精通したマニアは淡白な反応しか示さないということがある。それはマニアが同程度のインパクトをもつ作品をすでにいくつも体験しているからだ。感動を数量的に相対化するレベルに達するのは、悪くいえば「スレる」「慣れて麻痺する」ことだが、見方をかえれば「鍛えられる」「タフになる」ということでもある。スプラッタ映画のコアなファンなどは、その意味で「タフな消費者」といえる。
で、さらにそこから一歩進んで、例えば読書において、1冊あたりから受ける影響の濃度を希釈するためにたくさんの本を読む──ということを自覚的な目的意識として設定する人があるかもしれない。「影響を受けるのが恐いから読まない」ではなく、積極的な防衛として多読するスタイルである。
(ちなみに僕は本にしてもゲームにしてもただ漫然と嗜んで、ちょっと感心するとすぐに影響を受けてしまうタチだ)
けっきょく本当に強い影響力をもつ作品というのは、マニアの引き出しの中にさえインパクトを薄められるほどの作品がないものということになろうか。そのとき「比類ない」という形容はきわめて具体的な評価となる。
裏を返して、リリースサイドから考えてみる。
一つのジャンルで、お客さんの引き出しが増えて飽きが感じられ始めたときに、比類なきインパクトを生むための方策はあるだろうか。多分いくつかあるだろう。
いちばん簡単にして効果的なのが"ジャンル間の持ち越し/媒体間の持ち越し"だと思われる。「ある分野に詳しいマニア」は、「それ以外の分野の門外漢」である。ありとあらゆる分野を網羅する万能知識人は滅多にいない。それを突いて、他のジャンルの成果からいいとこどりをして別のジャンルへ移植してみせ、スレたお客をうぶな状態に引き戻してしまうのである。例えば、少年マンガに少女マンガの方法論を組み込むというふうに(スクランはそれで成功した面がある)。
だいたい、エンターテインメント全般において、大きな変革は媒体を越えた持ち越しが生むインパクトによってなされる傾向がある。映画史の黎明期に「記録する」「報道する」ドキュメンタリー的なものが主流だった状況で、ジョルジュ・メリエスが舞台演劇とマジックから「演じる」「めくらます(特撮)」という観念を持ち越してきたことの意義がそこにある。メリエスは映画が演劇のようにドラマを物語ることができる媒体であること、しかも現実を越える魔術的イメージを使うことができるということを示した。それが当時の人々に強烈なインパクトを与えたのだ。比類なきものは避けがたい影響力となり、やがて映画界はメリエスの描いた夢の色に染まっていくことになった。
こうした持ち越しによるインパクトとそれに続く変革は、エロゲーのように経緯が四半世紀もない媒体にさえ起こっている。映像面でいえばアニメーション、シナリオ面でいえばノベル系のシステムなども、おおもとをたどれば外の血を引き込んできたものであり、その当初は非常に新鮮なインパクトがあったのだ。アニメありのエロゲといえば、ソニアやZYXの諸作品のように、最初はそれだけをセールスポイントにできたくらいだ。
もし、あるジャンルや媒体で、お客さんがみんな慣れてタフな消費者ばかりになり、硬直気味の閉塞感が漂っているのであれば、内部に何か既存の良い素材が残っていないかと底ざらいするより、門外の、まったく無関係に見えるようなところへ題を取りに出かけてみる方が、よほど効果的なカンフルになる……かもしれない。
まとめ。
とりあえず、インパクトの法則として
・新しいものは刺激がある
・知らないものは新しい
というのをよく心がけて、ダマされないようにしたりダマそうとしたりしようってことですね(笑)
ああ、あと
・古すぎるものは新しい
てのもありますね。
古いネタ元があることを知らなかったり、知っていても直接に体験していないから、新しく感じられてしまうようなもの。