フィクション作品を楽しむにあたって、ひとつのタイトルの完全な個別的体験というのは当然あるはずもなく、つねにその前後の生活体験との文脈によって印象・感想が規定されてきます。
ノンストーリー系演出過剰ゆるゆる萌えアニメ100本を観た後でさらに「ぱにぽに」を観る場合と、ド重い文芸映画100本を観た後でひょいっと「ぱにぽに」を観る場合では、同じ人が同じもんを目にしていても体験の意味はまったく異なってきますよね。
また、単純に睡眠の過不足やちょっとした虫の居所など心身のコンディションだけでも感じ方は違うし、人生の転機になるような一瞬を迎えでもしていたら、そのわずか数秒間の前後でもモノを見た印象は正反対にもなりえます。だから「作品の感想は人それぞれ」どころではなく、人ひとりにおいてさえ感想は各状況でそれぞれかもしれないのです。
その文脈を忘れて「あの人はこの作品についてこう言っていた、今もこれからもそうだろう」「俺はあの作品についてこう思った、今もこれからもそうである」と硬直的に参照するのは思考の幅をきつく狭めかねません。逆にいうと、コメントしている主体の体験の文脈を少しでもつかんで、どんな言説もある一時点における暫定的な情動の産物であるという側面を心に銘じておけば、自他のある種の前言撤回に対してとても寛容になれるのではないでしょうか。「あの時はあんなこと言ってたくせに!」の論法は、時として人間の在り方に対して不当な糾弾になる危険性をはらんでいます。
[まとめ]
おなかいっぱいの時に食べるごはんと腹ぺコの時に食べるごはんは同じメニューでも舌心地がちがうという、ごくあたりまえの話。
三つ子の魂百までみたいな強い執着がある一方で、確かに、「文脈」による作品受容のぶれというものもありますね。後半の文章は耳に痛いところもありまして、気をつけたいものです。
ただ、そういう一見副次的な要素に関しては、発言する当人自身がその時その場で省略したり言い損ねたりして、後になって「なんであの頃俺はこんな物言いをしていたのだろう」と自分の思考過程を忘れてしまう危険性が常にあるんですよね。結果、傍から見てると妙な変節をしているように感じられてしまったりして。
>自分の思考過程を忘れてしまう
そういえば当時考えていたはずのこと(記憶)と、その時じっさいに書いた文章の結論が微妙に食い違って首を傾げたことが数回あります。ありゃ絶対あとでフォローしようと思ってそのまま放置したんだろうーなー、とか(^^;;
だから何にしても、よっぽど公式の言説でないかぎりはあるていど自他のことばの目先のあやふやさは見込んでおいたほうが精神衛生に良いかな、と(笑)