リクィド・ファイアのいずみの氏による論考。以前からオフ会でお話されていた内容がとうとう正式なテキストに起こされ、公開の運びとなりました。
「萌え」という語を広く把握するところから始まり、「萌える」という行為を我々がキャラクターの内面に入り込んで自己(の愛情を)投影するというモデルで説明、更にその「内面へ入る」ためのとっかかりとなる「入り口」を重要な要素として取り上げています。
「こっちの作品やキャラにはすんなりハマれるのに、あっちにはどうしてものめり込めないなあ」と感じることは誰しもよくありますが、そうした作品ごとの敷居の低さ高さが生じる理由が、この「入り口論」を読むと腑に落ちてきます。具体的な例では、男性にとって『あずまんが大王』と『苺ましまろ』では後者のほうがハードルが高いタイトルなわけですが、それは何故か……ということがよく分かります。もっといえばそうしたハードルが高い作品でも入り込める受け手がいるのはどうしてか、ということも。
ちなみに僕がこれまで「妹祭り」「姉祭り」等のイベントで発表してきた"消費者と作品の窓口"にまつわるネタ *1 は、いずみの氏のこの考察の影響によるところがひじょーに大きい(ぶっちゃけると影響どころか「元ネタ」なんですが!)ので、是非ご参照ください。
[追記]
応用として、たとえば『白蛇伝』に始まる東映のまんが映画でいつも原典にはない小動物キャラが主人公のお供にねじ込まれていた意味なんかを考えるのにも、この入り口論は役立ちそうですね。「萌え」が「好き」「可愛い」と全互換できる概念だとすれば、子供が感じる「萌え」と、その入り口も当然あろうはずですから。……現在だとミポメポいってるやつらを「メガネくん」的なとっかかりにしてプリキュアという客体的主人公へ心理的に近接するお子さまとか(笑)